友の会通信

明代の官窯磁器—正統期を中心として
はじめに
平成7年8月5日の講演会要旨を掲載するに当って、筆者の都合によりつぎの方法を取らせて頂くことをご了承願いたい。すなわち、要旨を I と II に分け、I の部分にはかつて『上海博物館 中国・美の名宝 第3巻』(日本放送出版協会1993年)に「景徳鎮の昼下がり」と題して発表した小文を、出版社の了解を得て全文再録した。ただし、その後の調査によって判明した二、三の箇所については訂正を加えた。II の部分では、講演会のスライド解説後半の趣旨を要約した。なお『日本美術工芸』682号(1995年7月)に「明代正統期の景徳鎮官窯磁器」と題して小論を発表しているので、ご参照願いたい。

I .中国の古い街の路地裏には、何かしら人を酩酊にさそいこむところがある。吃立(きつりつ)する白い壁、息づまるようなせまい道幅、ひそやかに住む人々の気配、閑けさの底から聞こえてくる声のないざわめき。そこでは謎ときに似た不思議な予感と、歴史のかびと勾いに包まれた安堵感がないまぜになって、人の心を静かな興奮にみちびいていく。
景徳鎮の珠山地区の古い街並みにも、そのような路地裏がいくつもある。珠山地区は、景徳鎮の中心部をほぼ東西に走る珠山路の北側にあり、明・清時代、ここには御器廠が置かれていた。今、御器廠の広大な建物は跡かたもなく、新しいビルが立ち並ぶばかりである。しかし周辺にはまだ古い民家が多く残り、せまい路地があちこちに走っている。曲がりくねったある路地の奥に、ひときわ古い明時代の立派な民家が立っている。「品陶斎」と名づけられたこの古びたいかめしい建物が「景徳鎮陶瓷考古研究所」の本拠であり、現在、世界中の中国陶磁学者が熱い視線を投げかけている研究の現場なのである。
景徳鎮が中国の窯業においてゆるぎない地位を獲得し、景徳鎮の歴史そのものを中国陶磁史にほぼ置きかえることが出来たのは、明時代になってからといえよう。御器廠が設置され、すぐれた官窯製品が大量に生産された。ところが明時代の官窯製品は多くの伝世品が残されているものの、生産現場における考古学的な資料に欠け、不明の部分が多かった。景徳鎮の町中や周辺から出土する資料は、せいぜい明末から清時代までの陶片ばかりの状態だったからである。
1980年代の初めから、こうした事情は一変した。珠山路の道路工事中に、御器廠の窯址の官窯製品の廃棄跡が発見されだした。最初は、永楽・宣徳の銘をともなう陶片が出土した。ひずみを見せる皿や六本の爪を持つ龍文の皿など、わずかな欠陥も見逃されることなく、すべて割られて埋められていた。永楽・宣徳だけでなく洪武・正統・成化年間などの官窯製品も、御器廠跡にある空地やビルの改築現場から続々と発見されるようになった。今やこの辺り一帯は、宝島に上陸したかのような興奮が渦まいている。こうした調査に従事し、研究成果を次々に発表しているのが、劉新園氏を中心とする景徳鎮陶瓷考古研究所である。 1989年、香港芸術館で「景徳鎮珠山出土・永楽宣徳官窯瓷器展覧」が開催されたほか、日本や英国などでも論文・講演・シンポジウムによって、今まで知られていなかった明時代の官窯製品の多様な側面が明らかにされつつある。1989年秋と1990年春の2回、私は品陶斎を訪れる機会に恵まれ調査の成果を目のあたりにしたが、ここでは2つのエピソードを紹介して、その一端を伝えることとしたい。
その一。宣徳と成化にはさまれた正統・景泰・天順の三代、28年間の陶磁生産の実態は、従来、不明のままであった。明・清時代の陶説・陶書にも記載がなく、またこの年間の作例がほとんど確認出来なかったからである。ただ近年、正統年間(1465-87)の墳墓や寺塔から壺・瓶・碗などが出土したことが報告されている。しかしいずれも民窯製品と思われる粗製のもので、官窯製品については雲をつかむような状態であった。ところが1988年、珠山地区で五基の窯址が発掘され、その西側に12トンにおよぶ大量の青花大壺の廃棄跡が発見された。龍文大壺についての「明史・食貨志」「明実録」の記文や出土遺物の様式から、それらが正統年間の製品であることが明らかにされた。復元された壺の中には高さ75.5㎝、胴径88.8㎝という大壺も含まれている。おそらく明時代最大の青花の壺であろう。龍文や波濤文などの文様は、宣徳年間より様式化が進み、かたい感じが加わっている。しかし表現の雄渾さ、青花の発色の強さなど、宣徳の名残りは十分感じられる。品陶斎の門を入った前庭の片隅に、小さな物置がある。劉新園氏がその前に私を連れて行き、指さすところに目を向けた時、私は思わず声をあげた。物置の奥には、厚さ2、3㎝もある巨大な重量感のある陶片がぎっしりと詰り、天井まですき間もなく積み上げられていたのである。12トンの陶片のほんの一部だという。茅台酒(まおたいしゅ)を5、6杯たて続けに飲まされた気分であった。大壺のほかにも青花の瓶・盤・碗・盞(さん)・基台などがあり、蓮池鴛鴦文の豆彩の皿も発見されている。正統年間の官窯製品の展開の多様性は、予想をはるかに越えていた。
その二。明時代の官窯製品の一つに、白磁脱胎暗花龍文杯という高さ5㎝ほどの細身の杯がある。脱胎は永楽年間に創始され、成化年間(1465-87)に完成されたというが、その暗花龍文杯の伝世品は台湾・故宮博物院など世界に数点しかない。珍品中の珍品といえる。脱胎、すなわち胎がなくなるほど薄く削られ、うわぐすりだけで形を保っている。持っただけで割れてしまいそうで、劉新園氏によれば胎の厚さは0.6㎜だという。その薄い胎壁に細い針の先に精緻きわまりない龍文が印花の技法によってかくし彫りされている。ぴんと跳ね上がったひげの先、鱗の一片ずつなどルーペではっきり見える。まさに絶技と言うべきか。器底にはお定まりの「大明成化年製」という謹直な青花銘がある。完全に復元されたその脱胎杯を、宝石に触れるかのように堪能していた時、劉新園氏が手を挙げて合図した。部屋の隅で待機していた研究員が二人、奥に引込み、やがてバケツほどの大きさの籠を重そうに運んできた。不審そうに見る私達の目の前の地面に、ずしりとその籠が置かれた。中には何と、脱胎杯の器底の部分が何百個、成化年製の銘を見せながら折り重なってぎっしりと詰められていた。景徳鎮の路地裏で白昼、私は完全に酩酊の真只中につき落とされたのである。

II .一つの時代に固有の時代様式は、それ以前の時代様式のある部分を受け継ぎ、そのまま継承し、あるいはそれを変容して独自のものを作りあげ、やがて次の時代に引き継いでいく。正統期の時代様式は当然、その直前の宣徳期の官窯磁器の様式をもっとも大きく受けている。現在、正統期の官窯磁器として発表されているのは、青花龍文大壺を除けばたかだか十数点あるに過ぎない。しかしこのわずかな作例の中にも、品種、器形、文様、青花の発色などにさまざまな宣徳様式の継承を見受けることができ、一方、正統独自の様式をうかがうことができる。
ここでは、宣徳から正統へ、そして正統から成化へという流れの中で、豆彩技法がどのような変遷を見せたかを取り上げて正統の官窯磁器の持つ陶磁史的意義を考えることとしたい。
豆彩技法は従来、成化年間に創始され、また発展を遂げたと見られてきたが、1985年、西蔵の薩迦寺で宣徳銘をともなう豆彩鴛鴦文碗が発見され、大きな注目を浴びた。さらに1988年、景徳鎮の御器廠跡からも類似の文様を描いた宣徳銘豆彩盤が出土した。その上、正統の層から類似文様の碗、成化の層から類似文様の宣徳・正統の盤が出土するに及んで、豆彩技法の系譜は一挙に明らかになった。しかし宣徳、正統に豆彩技法が認められることは事実であるが、作例は微々たるものに過ぎず、豆彩の黄金時代はやはり成化期を俟たねばならない。その成化豆彩の技法上の特徴の一つに、上絵付の部分が青花の輪郭線によって囲まれている(青花勾靭法)ことがある。青花の部分の描画と上絵付の部分の青花輪郭線とによって、成化の豆彩は青花優先の技法とも言えよう。
一方、宣徳期の豆彩を見ると、上絵付の文様に主体があり、青花の部分はアクセントとして一部にあしらわれているに過ぎない。たとえば水禽の描画における青花の部分は、わずかに頭や翅の先などごく一部に留まっている。しかし青花という釉下彩と上絵付(釉上彩)、すなわち釉層の表裏に分かれた異種の文様賦彩が一つの器物で融合されたことは画期的なことであり、ここに明代以降の赤絵技法が確立されたのである。
正統の豆彩になると、今度は文様のほとんど、すなわち紅彩による蓮花を除いてすべての文様が青花による輪郭線によって囲まれ、その中に上絵具が塗りつめられてくる。いわゆる青花勾靭による文様表現は先述の通り、成化豆彩の特徴の一つである。ほぼ同様の文様構成をもつ宣徳・正統・成化三期にわたる豆彩の流れを見るとき、正統に至って技法的に一大変容を遂げ、そのまま成化に踏襲されていくのがよくわかる。すなわち正統期は、宣徳から成化への単なる過渡的な存在であったのではなく、黄金期を迎える成化に対する重要な準備期としての役割を果たしていたのである。

プロフィール
伊藤郁太郎

昭和6年大阪市生まれ。
昭和30年、安宅コレクション担当として、安宅産業に入社。
昭和57年、大阪市立東洋陶磁美術館館長に就任。現在に至る。
日時:平成7年8月5日(土)午後1時半〜3時半
会場:中之島中央公会堂・3階中集会室
講師:大阪市立東洋陶磁美術館 伊藤郁太郎
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