友の会通信

『李朝の文房具』
東洋陶磁美術館で開催中の「李朝の水滴展」に関連して、李朝の文房具について、お話させて頂きます。

李朝という時代は、1392年から1910年まで、519年続いた非常に長い王朝です。朝鮮半島は歴史的に見ましても、中国や日本からの外圧により、常に不安定な状況でありました。そんななかで、このような長期間にわたり、一つのの王朝が存続し得たということは、注目すべきことです。このことには、李朝時代の国家の指導理念であった儒教の果たした役割が大きいと考えられます。そして、この李朝時代を導いた中心的な存在であったのが“士人”(ソンビ)と呼ばれる文人達でした。士人になるためには、科挙という官吏登用試験にうかることが必要であり、そのためには、儒教の学問とともに、漢詩に代表される芸術的な素養が非常に重視されました。また、士人達は肉体労働をたいへん嫌い、反対に“〓”即ち風雅・粋といったようなことを非常に尊ぶ風潮が生じました。従って李朝時代とは、このように文化や教養が非常に重視された時代であったと言えましょう。

ところで、この士人達は、平素は、舎廊房と呼ばれる部屋で読書や詩作に耽ったり、来客と風流を楽しんだりしています。この舎廊房を形作るために必要なものが何かというと、文具と文房家具であります。儒教は倹素質朴を旨とするため、これらの文具・文房家具も実用性主体の合理的な形態となり、日本では考えられないぐらいに、これらを中心とした、舎廊房文化・書斎文化が発達したのです。文房家具には、本棚・四方卓子(飾り棚)・文匣(文具入れ)・硯床(硯台)・硯匣(硯箱)・書案(文机)(Fig.1)等があります。また、文具には、紙筒(Fig.2)・筆洗・筆架・墨・墨床・硯屏・硯・水滴(硯滴)・書鎮等があり、以上のようなものが舎廊房を飾っているのです。このような文具・文房家具に囲まれた舎廊房というものに思いを馳せてみますと、中央に書案が備えられ、後方には屏風が、周囲には本や文具が置かれ、墨や書物の香り、これを文香・書香などといいますが、それが満ち満ちて、非常に学術的雰囲気のある空間だったと思われます。

李朝の文具尊重の長い伝統は、一例として、李朝民画の中に文房図屏風(Fig.3)という、中国にも日本にも見られないジャンルを発達させました。これは屏風に書棚や紙・墨・硯・筆の文房四宝やその他の文具、士人の身の回りに置くメガネ・茶器・扇子・時計・花などの愛玩物などが描かれているものです。文房図屏風(Fig.4)は、基本的には学問崇拝を表わしたものですが、李朝の全時代を通して見ますと、必ずしもそうとは限らず、例えば実学派の台頭した18世紀以後には、朱子学一辺倒の保守的な体質を批判して、壊れたメガネ、蜘蛛の巣のかかった書棚などを描いて、学問の否定を暗示したものなども見られます。

また舎廊房に不可欠のものとして、文具や家具以外に、玄琴・短簫・洞簫などの楽器があります。「琴棋書画」という言葉がありますように、文人のたしなみとしての楽器は中国・朝鮮・日本に共通のものです。その上で、朝鮮半島においては、独自の楽器や詩歌があり、士人達が集い、音楽を楽しむということが重視されていたのです。更に、舎廊房には、平床(寝台)・竹夫人・屏風・キセル・タバコ盆・唾具などの様々な道具があります。そして、これらは、士人の財力にみあって、整えられていました。しかし、本来儒教とは人間の欲望を抑える教えであるので、このように高価な愛玩物に執着することはタブー視され、「玩物喪心」(愛玩品に心を奪われると、男子としてなすべき仕事が疎かになる)という言葉で戒めています。しかし、それでも文具愛玩の思いは断ち難いらしく、その一つとして、今展覧会で見られるような、非常に多様な水滴が残されているのだと考えられましょう。

次に具体的に文房四宝を中心とした文具について述べてみましょう。

〈紙〉
朝鮮半島の紙は、新羅時代から非常に有名で、高麗時代には、宋の人々が高麗紙としてたいへん崇めたものです。徐有榘(1764−1845)の「林園経済志」にも朝鮮半島の紙がいかに優れているかが述べられています。紙は平安道・咸鏡道を除く全国で生産されており、特に朝廷で使われるものはソウル北方の北岳の近くに製紙所があり、そこで作られていました。また、中国・日本に対しての進上の品としては、全羅南道の全州と南原で作られたものが使われました。素材は楮が中心で他にも様々なものが使われていて、紙の呼称も50以上に及んでいます。このように、朝鮮半島では非常に古くから、紙の文化が進んでいたことがわかります。

〈筆〉
文房四宝の中で筆だけは、新しいものが良いとされています。筆で重視されたのは、尖(とがった)・簫(整った)・円(丸い)・健(堅固)の四つの条件です。筆は筆先と筆軸で構成されますが、その筆先には、鳥・虎・鹿・兎など様々な種類の動物の、秋から冬の間の特に栄養の貯えられた時期の毛を二種類以上まぜあわせて使用しました。一方、筆軸に使われる材料も様々で、金・銀・めのう・ひすい・べっこうなどの高価なものもありますが、儒教の原則としては、倹素な竹の軸が良いとされ、特に全羅南道全州や、南原の白竹が最上とされています。

〈墨〉
墨は古いものほど良く、その色合いは、黒さの中に紫色が漂うものが最上とされています。材料は煤で、それをにかわで固めて香料で香りをつけます。煤には松の煤と油の煤の二種類があり、油の煤には更に桐の実、胡椒、榧の実などから取ったものがあります。煤を固めるにかわは鹿の内臓からとったものが最上だとされています。香料にも様々な種類があり、瑞雲香・龍脳香・麝香などです。更に加工時に墨の表面に、彩絵・陽刻・陰刻などの装飾が施されます。産地としては、黄海道の海州と平安道の陽徳が有名です。

〈硯〉
他の文房具と異なり、割れない限り半永久的です。それだけに士人達の愛着心も強く、競って良い硯を所有しようとしました。一般に硯は中国のものが有名ですが、朝鮮半島でも硯を積極的に作っています。特に保寧郡の藍浦の黒曜石の硯は有名です。また、素材も石だけでなく、木、銅、瓦、鋳鉄、磁石などいろんな素材で作っています。形も様々で、それに従って、風字硯・円硯・百足硯・桃形硯などの名称がつけられています。

〈水滴〉
水滴には、硯に水を一、二滴落とすような硯滴と、今回の展覧会にはとりあげられていませんが、汲み出し式の水盂と二種類があります。素材的にもやきものだけに限らず、金属のものも多くあります。器形は、丸形・方形・長方形・多角形・球形・輪形・扇形・花形・動物形など多様ですし、用途に合わせて大きさも様々です。また、文様についても、山水・花鳥・四君子・植物・動物・文字などきりがないほど多くあります。そして、その形や文様には、長寿を表わす桃形や福禄に通じる蝙蝠、吉祥の文字など、禁欲的な儒教の重視された時代ではありましたが、非常に現世利益的な、人間的な願望が込められているものが多くあるのです。
(このあと、スライドを使って、個々の作品を通じて詳細な解説がなされました。)
(文責:友の会事務局)
プロフィール
吉田宏志

1940年札幌市に生まれる。慶応義塾大学文学部哲学科(美学美術史専攻)修了。
現在、大和文華館学芸部次長。
著書は、『高麗仏画』〔共著〕(朝日新聞社)『韓絵画史/安輝濱著』〔共訳〕(吉川弘文館)など。
日時:昭和63年7月2日(土)午後1時半〜3時半
会場:大阪弁護士会館・6階大会議室
講師:大和文華館学芸部次長 吉田宏志
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