陶磁の歴史

中国陶磁の視点

出川哲郎

はじめに

中国陶磁は長い歴史をもっており、また高い評価があたえられてきた。しかしながら、中国陶磁史は、まだ完全には解明されてはいない。これまで多数の窯が調査されているが、調査が完了し、完全な報告書が刊行された窯はあまり多くない。そして考古学的な発掘による新たな事実によって、常に書き換えられている状況にある。

しかし、中国陶磁の魅力を示してくれる作品は多数知られている。それぞれの時代の技術的、芸術的に完成度の高い作品、とくに貴族趣味、宮廷趣味が反映されたものや、最高級の貿易陶磁などである。そのほか、20世紀になってから発掘により知られるようになってきた新石器時代から宋時代の美的価値をもった陶磁器もあわせて、通史的に内外の美術館、博物館で鑑賞することができるのである。

新石器時代

中国では新石器時代早期の土器が河南省、河北省、江西省、浙江省、広東省、広西壮族自治区などで発見され、その年代はいまから約7000年〜10000 年前である。たとえば、河北省徐水県南庄頭の土器では9700年〜10500年前、江西省万年県仙人洞のものは7600年〜10000年前、広西壮族自治区桂林市からは7600年〜9000年前と測定されている土器片が出土している。復元可能な土器は河北省の武安県磁山、河南省の新鄭県裴李崗の文化遺跡のものでB.C.6000年〜B.C.5200年頃である。

このあと、大まかにいえば黄河の中・上流域、黄河下流域、長江以南の江南地域の3地域で独自のスタイルの土器がつくられ、また製陶につかわれた窯も発見されている。

まず、黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。B.C.4000年頃からの半坡遺跡(陝西省)やB.C.3300年頃からの廟底溝遺跡(河南省)などの仰韶文化が花開く。この時期には胎土に黒絵具で文様を描く彩陶が出現する。 B.C.3300年頃には赤絵具が加わり、華やかなものとなっていく。中国西部の甘粛省や青海省でも彩陶が焼成され、甘粛仰韶文化または馬家窯文化(B.C.3000年頃〜)とよぶ。そのあと半山文化(B.C.2600年頃〜)、馬廠文化(B.C.2200年頃〜)などが展開し、甘粛省では斉家文化、辛店文化など戦国時代頃まで長く彩陶文化が続いた。

一方、黄河下流域の山東省から江蘇省にかけては大ぶん口文化(B.C.4500年〜B.C.2400年)が展開した。前期には紅陶が中心で、中期には彩陶が焼かれ、後期には轆轤と窯を使用した還元焔焼成する灰陶や黒陶、白陶が主流となる。続く龍山文化(B.C.2400年〜B.C.2000年)は精巧に成形された卵の殻のように薄い黒陶で知られる。

B.C.5000年頃からは浙江省の河姆渡文化が興り、紅陶、灰陶主体の馬家濱文化(B.C.3600年〜B.C.2700年)、黒陶の良渚文化(B.C.2750年頃〜B.C.1890年頃)が浙江省北部から江蘇省にかけて展開される。四川省から湖北省にかけても河姆渡文化を受けて紅陶の大渓文化、黒陶の屈家嶺文化(湖北省〜河南省)が続く。

夏・商・周・秦・漢時代

B.C.1600年頃に始まった商(殷)王朝ではすぐれた青銅器が鋳造され、白陶においては青銅器を手本としたものもみられる。施釉陶の焼成技術がうまれ、この灰釉陶は灰陶の器形を継承したもので、原始瓷器と呼ばれることもある。春秋時代(B.C.772年〜B.C.481年)末期から戦国時代(B.C.403年〜B.C.221年)にかけては、印文硬陶が焼成され、また灰釉陶で青銅器を模倣したものが多く見られる。

華北地域で戦国時代にはじまった厚葬の風習は、秦始皇帝の兵馬俑に見られるように秦代(B.C.259年〜B.C.210年)、漢代(B.C.202 年〜8年・25年〜220年)にかけてますます盛んになり、明器としての灰陶、加彩灰陶が大量に焼かれる。それとともに高火度で焼成する灰釉陶に対し、低火度(800〜900度)で焼成する鉛釉陶が開発される。鉛釉陶には呈色剤に銅をつかった緑釉や鉄をつかった褐釉がある。この鉛釉陶も明器として使用された。鉛釉陶には楼閣や犬、井戸、壺などさまざまな器形のものがある。

後漢時代になると本格的な青磁が登場し、窯が浙江省北部の上虞、寧波、永嘉などで発見されている。口の真っすぐ立ち上がった四耳壺などがあり、いわゆる越窯青磁の始まりである。

三国・両晋・南北朝時代

越窯青磁は三国時代から西晋時代(220年〜317年)に発展し、独特な造形をつくりあげた。例えば、壺の上に楼閣を組み合わせ、人物や動物を貼り付けた神亭壺や盤口壺に取っ手がつき鶏や羊の頭を注口とした天鶏壺などが生み出される。神亭壺は後漢時代の五連罐から発展したもので、3世紀後半から4世紀にかけて作られた。天鶏壺は4世紀以後東晋に始まる。また羊や獅子、犬、鶏舎、蛙形水盂などの動物形の造形も多数みられる。鉄絵を施した青磁の壺が江蘇省南京市雨花台の三国時代の墓から出土している。東晋時代には鉄斑文を施したものや黒釉の天鶏壺が焼成されている。南朝時代になると仏教芸術の影響をうけて蓮弁文の文様が流行する。南朝の越窯の造形である盤口壺などは、そのまま隋から唐にかけてもみることができる。

一方、華北地域では五胡十六国の時代に入る。北斉時代(550年〜577年)に白色の胎土に透明釉をかけて高火度焼成する白磁が焼かれた。また低火度焼成の鉛釉陶も焼成され黄釉に緑釉が流し掛けされたものが北斉の墓から出土している。これは、後の唐三彩に発展するものといわれている。この時代は葡萄文、パルメット文、連璧文などが見られ、西アジア文化が作風に影響を及ぼした時期でもある。この傾向は隋代(581年〜618年)にも引き継がれる。河南省の鞏県窯や河北省の臨城県、内丘県のけい州窯では白磁が焼成されている。

唐時代

唐代(618年〜906年)になると、文化はますます国際性をおびるようになり、新しい造形もみられる。7世紀の越州窯では古越磁の盤口壺などの造形や釉色のものが引き続き焼成されていたようである。その産地も浙江省北部の越州窯に限らず、浙江省南部から福建省、江西省などにもみられる。華北では耀州窯で黒磁や白釉磁が、けい州窯などでは白磁の生産が拡大していく。また、晩唐には定窯(河北省曲陽県)が開かれ白磁生産の中心となっていく。白化粧をおこない透明釉をかける白釉陶は鶴壁窯(河南省)、密県窯(河南省)、登封窯(河南省)などをはじめとして、河南省、河北省、山東省、安徽省、山西省、陝西省にひろがる。これらの窯では五代にはさらに白釉緑彩や釉下鉄絵が開発され、白地掻落の表現技法が北宋にかけて発展していく。

明器として加彩の俑もまた盛んに制作が続けられている。造形的にすぐれたものがおおくみられる。鉛釉陶では三彩が盛んとなる。唐三彩はほとんどが明器として制作され、窯はけい州窯、耀州窯、鞏県窯などで発見されている。初唐から盛唐にかけて盛んであった華やかな貴族文化は755年の安禄山・史思明の乱を境に衰退していく。青磁では古越磁から一新した展開が越州窯に見られる。8世紀後半から9世紀後半にかけて玉璧高台の碗などがつくられ、この形式はけい州窯など各地の窯にもみられる。

陸羽の『茶経』(761年頃)には越州窯(浙江省慈溪)、鼎州窯(陝西省耀州窯)、ぶ州窯(浙江省金華)、岳州窯(湖南省湘陰)、壽州窯(安徽省淮南)、洪州窯(江西省豊城)など、白磁ではけい州窯の碗があげられている。越州窯ではこのあと、法門寺地下宮殿(874年)出土品にみられるような秘色青磁を生産する。秘色青磁の生産の中心は浙江省慈溪市上林湖畔の窯で、呉越王の銭氏は秘色の貢磁を大量に生産していた。

釉下彩に銅や鉄を用いる陶器は唐代に湖南省の長沙窯において盛んに製作されていた。またコバルトを用いた藍釉が唐三彩にしばしばみられ、また唐代の青花磁器がいくつか知られている。江蘇省の揚州唐城遺址出土のものや河南省洛陽出土のものなどが青花の先駆的な例である。本格的な青花の登場は元時代をまたねばならない。

宋時代

宋時代の白磁の代表的な窯として定窯が知られ、晩唐から金にかけて活動した。窯址は河北省の曲陽県澗磁村にひろがっている。宋代には主に刻花や印花で文様をほどこした象牙色の白磁を生産していたが、その他、緑釉や黒釉、褐釉をほどこしたものもみられる。宮廷で使用されるために製作された格調のある龍文や鳳凰文などのものもある。定窯の磁器の胎土は緻密で硬く、白色である。そして胎壁は薄くつくられ、造形も洗練された安定感がある。定窯では伏せ焼きによる焼成法がとりいれられ、生産効率が高まった。しかし、口縁部は施釉されないので、金属の覆輪がつけられることが多い。

五代に景徳鎮(江西省)の楊梅亭、黄泥頭、湖田などでは青磁とともに純白の白磁を焼成している。青磁は越州窯系のものである。白磁は11世紀頃からは釉に青みを含んだ青白磁が中心となり膨大な量が焼成された。ここでも、12世紀頃から伏せ焼きの焼成技法がつかわれている。青白磁は景徳鎮のほか、江西省の吉州窯や南豊窯、福建省の徳化窯、建窯、浦城窯などの他、広東省、安徽省、浙江省などでも焼成され、青白磁系を構成した。

耀州窯は唐から磁州窯系の窯として白釉陶や唐三彩などを焼成していたが、越州窯の影響を受けたと考えられている青磁も焼成している。また、五代の耀州窯青磁は釉色、造形ともにすぐれたもので、かつて東窯と呼ばれたこともある。北宋には片切彫りで文様が施され、オリーブグリーンの釉色をした青磁が生み出された。耀州窯の中心は陝西省の銅川市黄堡鎮であり、ここでは見事な刻花や印花の碗や盤が大量に生産された。宋代には燃料は薪から石炭へとかわり、また耀州窯の作風をもったものが河南省の臨汝窯、宝豊窯などの諸窯で焼成され、耀州窯系をなした。越州窯の秘色青磁の影響をうけた五代の耀州窯はさらに汝窯へと青磁の理想の釉色の追求の系譜がある。汝窯は河南省宝豊県清涼寺が窯址とされている。ここでは、汝窯だけではなく鈞窯系や耀州窯系のものも同時に焼成していた。汝窯の製品は細かい貫入がはいり、胎を針のような小さな支柱でささえて焼成した精巧なもので、伝世品はきわめてすくない。1127年、女真族に追われた宋王室は都を臨安(杭州)に移し、南宋官窯がひらかれる。文献では修内司窯や郊壇下窯などが南宋官窯として設置されている。現在、郊壇下窯(杭州市烏亀山)の発掘報告がなされているが、近年には修内司窯とされる窯の発掘調査が鳳凰山の老虎洞窯址で行なわれた。南宋官窯のものは鉄分をおおく含んだ黒色の胎土が特徴であり、釉層もかなり厚い。南宋官窯タイプのものは龍泉窯や越州窯(慈渓県彭東窯)でも発見されている。

龍泉窯は北宋時代中期までは同じ浙江省内の越州窯、甌窯、ぶ州窯の諸窯の影響をうけたような器形、釉色の製品を作っていた。開窯は西晋時代にまでさかのぼるともいわれ、越州窯系の窯のひとつであった。南宋時代には、龍泉窯は飛躍的に発展し、大窯、金村、渓口、安福、山頭、大白岸、上厳児、安仁口などに数百の窯が点在しているという。渓口窯などでは南宋官窯にならった黒胎青磁の造形がみられる。南宋から元にかけてのすぐれた龍泉窯青磁が日本に多数伝世し、出土例もきわめて多い。1323年の韓国新安沖沈没船からは1万点をこえる龍泉窯青磁が引き揚げられている。また1991年に四川省遂寧県の窖蔵から南宋末の青白磁とともに大量の龍泉窯青磁が発見され話題となった。南宋後期の龍泉窯青磁は釉薬が2層から3層と厚くかけられた粉青色の見事なものが多くあり、日本ではこの釉色のものを砧青磁とも称している。

天目とよばれる黒釉の茶碗が宋時代に各地で焼成されている。黒釉は後漢時代に誕生し、徳清窯(浙江省)などの古越磁を焼成した窯にもみられるが、定窯の黒釉磁など見事な茶碗が焼成されるのは北宋時代になってからである。磁州窯、耀州窯、吉州窯、建窯をはじめ中国各地の窯で黒釉の茶碗が焼成された。南宋時代には建窯(福建省建陽県水吉鎮)で黒釉碗が大量に生産され、禾目天目(兎毫盞)、油滴天目(滴珠盞)や曜変天目などが高く評価されている。また吉州窯(江西省吉安市永和鎮)では型紙で文様を抜いたり、木の葉を焼き付けた天目や、釉調が鼈甲に似た玳皮天目(鼈盞、玳皮盞)が産まれた。磁州窯では白覆輪天目なども作り出している。

磁州窯は華北の民窯を代表するもので、その特徴的な製品は白化粧をほどこした上に掻落で規格化されない自由な文様を施したものである。また白化粧のうえに更に鉄絵具をかけ、文様を掻落したものに優れた作例がある。この白地黒掻落に代表される磁州窯の窯は河北省南部の磁県が中心である。このほか磁州窯系の窯は河南省をはじめ河北省、山西省、山東省、陝西省にひろがっている。宋代には華北ではこの磁州窯系のほか耀州窯系、鈞窯系、定窯系がそれぞれ重なり合いながら需要に応じて活発な生産をしていたのである。金時代13世紀から元時代にかけて河北省の磁州窯、河南省の鶴壁窯、登封窯、禹県はい村窯、山東省し博窯、山西省の長治窯など磁州窯系を構成するいくつかの窯で赤や緑で上絵付をした赤絵(紅緑彩)が生産されるようになる。元時代には景徳鎮でも磁州窯風の赤絵が生産されている。

青花と五彩磁器

唐、五代、北宋には青花の先駆的な例がいくつかみられるが、元時代になると青花の出土資料や紀年銘資料、遺品がおおくなり様式展開をたどることが可能である。白磁に青く鮮やかに、そして緻密に描かれる青花は全く新しい絵画的表現を可能にした。南宋時代から元時代にかけて、景徳鎮では刻花および印花による文様表現が主流であった。そして青白磁刻花に紅釉の施されたものもみられるようになり、青白磁にビーズ紐状の盛り上げによる表現もあらわれる。またビーズ紐飾りと同様のデザインで釉裏紅による表現などが試みられている。技法的に文様を如何に表すかに関心が向かって行った。そして、酸化コバルトによる釉下彩の技法である青花が定着すると、多種多様な文様が描かれることになる。筆による絵付の自由さを獲得することによって、画題は一挙にひろがっていく。緻密な筆使いと濃淡のある青色によって表現力はたかまり、それまでの陶磁器の装飾には見られない写実的なものがあらわれる。また、青花の技法が成立するのと時期をおなじくして、大型の盤や壺が製作される。したがって、文様を描く表面積が必然的に広くなっていく。鮮やかな青色の絵付に関心が向き、もはや、陶磁器の白い表面は文様のための背景に過ぎないほどである。

器形の特徴としては、宋時代の器形を踏襲したものに玉壺春や梅瓶があり、元時代以後現れる器形として高足杯、僧帽壺などがある。

主文様として龍文、鳳凰文のほか、麒麟や鴛鴦、魚、虫などの動物、牡丹、瓜、芭蕉、蓮花などの植物が描かれる。主文様の周囲には波濤文、如意頭文、ラマ式蓮弁文、宝相華唐草文、牡丹唐草文、雑宝文などが配置されている。

江西省九江市の延祐6年(1319年)墓出土の青花塔式共蓋壺では青白磁の釉下彩に如意頭文、牡丹文、蓮弁文が描かれている。また後至元4年(1338 年)の青花釉裏紅四神文共蓋壺、青花釉裏紅楼閣なども青白磁に釉下彩が施されたものである。このような作例のあとに登場するのが至正11年(1351年)銘のあるロンドン大学デイヴィッド財団の青花龍文象耳瓶である。これは完成された堂々とした様式をもっている。いわゆる至正様式である。従って、この頃に青白磁から青花磁器への急激な発展過程があったのであろう。この時期に文様表現のための様々な技法が同時平行して存在したと考えられる。青花の技法の完成によって、より緻密な文様構成が可能になり、また、濃淡のある絵付の工夫によって表現力は一層たかまった。コバルト顔料はイスラム圏からの流入のものであり、多段に文様帯をかさねる構成や器形にはイスラムの金属器の影響がみられるなど、元時代の景徳鎮においてイスラムからの影響のもとに本流としての青花が誕生した。景徳鎮の元代磁器窯址は郊外の湖田窯と市街区に集中している。湖田窯は青白磁を生産した広大な窯である。ここからは、ビーズ紐状飾りのある青白磁の壺片とともに、イスタンブールのトプカプ宮殿などに伝世している元青花の大盤などの文様に一致する青花磁器片が出土している。

元王朝による將作院の浮梁磁局の設置は至元15年(1278年)とされている。將作院には浮梁磁局のほか画局も設けられ、ここで青花の下絵が描かれたという。イスラム系技術者も含め相当数の職人がこの画局に属し、このことはトプカプ宮殿などに所蔵されている青花磁器の幾何学的な文様構成などにも反映されている。

中国国内では河北省の保定市や江西省の高安県などの窖蔵から元の青花や釉裏紅が出土している。また元青花は貿易陶磁として流通し、世界各地で収蔵ないし出土している。例えば、トルコのトプカプ宮殿、イランのアルデビル廟などに収蔵されているほか、インドのトゥグラク宮殿跡や沿岸部各地、中近東のダマスカス、ホルムズ、エジプトのフスタット、さらに福井や沖縄においても出土している。また、東南アジアでは至正様式のものとは異なったタイプの元青花が多数出土している。しかし、元時代に皇帝用として製作されながら、故宮の宮廷コレクションには殆ど収集されず、中国国内よりも国外においてすぐれた元青花磁器が伝世している。このことは元青花の貿易陶磁としての性格をしめしているとともに、元青花に対する明清時代の評価を反映している。

一方、上絵の技法は金代の磁州窯の赤絵(紅緑彩)に見られる。この赤絵は赤、緑、黄色を用いて素早い筆使いで簡略に絵付したもので、金の年号の墨書銘(泰和元年 1201年)のある碗などが知られている。白釉の上に緑釉や黄釉などの三彩釉に赤が加わった絵付である。元時代には、この宋赤絵に似た色絵の磁器が景徳鎮で生産されていた。景徳鎮で出土した陶片を見る限り、官窯の厳格さは見られず、磁州窯の作風をのこしている。華北の磁州窯の作風が江西省の景徳鎮に伝えられたのである。青花の至正様式の完成とともに、青花は飛躍的に発展したが、上絵の技法はそれほど発達がみられなかった。

現在、景徳鎮市の珠山で御器廠跡の発掘が景徳鎮市陶瓷考古研究所によって行われ、その発掘成果は『皇帝の磁器展』(1995年)などでも紹介されている。御器廠は明代初期に設置された官窯である。ここに、中官の督造官などが派遣されて官窯の焼造がなされていた。御器廠の設置については洪武2年(1369 年)(『景徳鎮陶録』)、洪武35年(1402年)(『江西大志』)、宣徳元年(1426年)など諸説あり、史書の記述でも一致していない。

洪武帝は海禁政策をしき、朝貢貿易のみとなった。そして、イスラム圏からのコバルトの流入がとだえ、青花磁器の様式にならった釉裏紅磁器が試みられている。洪武様式は元青花の様式を踏襲したものであるが、洪武年間(1368-1398)には釉裏紅が好まれ、また交易品としての青花磁器はすくない。珠山の発掘によって、洪武年間にも大量の大型磁器の生産が裏付けられている。洪武様式の青花や釉裏紅の主文様は牡丹、菊、芭蕉、松竹梅といった植物文様が中心である。銘はない。主文様の周囲などに配置される文様帯は牡丹唐草文、菊唐草文、蓮弁文、蕉葉文、霊芝雲文、雷文、波濤文などで、器形には大型の鉢や盤、壺、玉壺春、梅瓶などがある。

洪武年間の製品で南京洪武宮の出土の紅彩龍文盤の陶片には、白磁の上に紅彩で五爪の龍が描かれている。上絵付の技法は基本的には洪武期には完成していたと思われるが、2色、3色と複数の色を使った表現はこのころはまだ一般的ではない。

永楽年間(1403-1424)にはいわゆる「鄭和の大遠征」といわれる大艦隊を組織した国家的な貿易がおこなわれた。これによって、イスラム圏からのコバルトの輸入が再開される。「蘇麻離青」(スマルト青料)と呼ばれたコバルトはマンガンの含有量がすくなく、鮮やかな青藍色を呈示する。永楽年間の褐彩や紅彩、金彩のものが景徳鎮の御器廠跡から出土している。陶片からは上絵による明快な文様表現を目指していたことがわかる。また、単色の上絵付も盛んに試みられているが、青花が文様表現の中心であることにかわりはない。従来、宣徳期(1426-1435)に始まるとされてきた紅彩のものや紅釉のものなどが永楽期に完成していたことが分かってきた。永楽期独特の甜白と呼ばれる白磁に紅釉や紅彩で文様が描かれているのである。また黄地緑彩、あるいは緑地褐彩のものなども永楽期に焼成されている。

永楽年間には白磁や紅釉に暗花で「永楽年製」と篆書銘のあるものがみられるが、官窯銘を記すのは一般的ではない。「宣徳年製」、「大明宣徳年製」と記されるようになるのは宣徳中期以後の御器廠の特徴である。天球瓶や扁壺、僧帽壺、燭台、大型の盤など多彩な器形がみられ、そこには伸びやかで均整のとれた筆致で束蓮文や唐草文が描かれている。また、「青花花鳥文盤」のように装飾的な図案を越えた写実的な絵画表現も現れている。

宣徳期には豆彩がはじまるなど、実にさまざまな技法が試みられている。景徳鎮の出土品の中には宣徳期の豆彩が発見されている。この豆彩は青花で輪郭線を描き、赤や黄、緑、紫などで上絵付をしたものである。しかし、宣徳年間の豆彩の伝世品は知られていない。宣徳年間には青花で牡丹文や萱草文などを描き、地の部分を黄彩で埋める文様表現が完成する。この描き方は宣徳期に始まり、成化、弘治、正徳期にも引き続き製作される。

正統(1436-1449)・景泰(1450-1457)・天順年間(1457-1464)官窯の青花は官窯銘はないが、史書や景徳鎮の発掘から様々な製品が活発に焼成されたことが知られている。珠山からの発掘品をみるかぎり、宣徳期と同様な作風を示している。しかし、宣徳期のような装飾性の高い精緻な作品は伝世していない。民窯では人物文や雲文を描いた「雲堂手」などが焼成されている。

成化期(1465-1487)には宣徳官窯銘をいれた倣製品がつくられるなど宣徳期を継承したものがある。また、比較的小型の製品がおおいが、伝世品では器形の種類はすくなく、碗や盤に優れたものが残されている。特に「パレスボウル」と呼ばれる成化期の碗は評価が高い。

成化年間の五彩磁器を代表する豆彩は伝世品がきわめてまれであるが、景徳鎮の御器廠からは高台だけでも数万点が出土している。豆彩が盛んに焼成されていたのである。このことは、御器廠における製品の選別がいかにきびしいものであったかを物語っている。成化の豆彩は杯や碗などの小型のものが中心である。そして明初の紅緑彩の色絵磁器がここにきてさらに色数がふえてきた。それと同時に単色の上絵のもの、黄地青花や紅彩もさかんに焼成されている。景徳鎮御器廠の出土品からは、成化年間の色絵磁器は実に豊かなものであったことがわかる。五彩、豆彩、青花紅彩、黄地紫彩、黄地緑彩、黄地青花の他、嘉靖年間で盛んに焼成される紅地緑彩や白磁緑彩なども作られている。また、「天」字銘のある豆彩の壺も多数見つかっている。伝世している成化年間の豆彩は華麗でかつ官窯らしい品格がある。

続く弘治(1488-1505)・正徳年間(1506-1521)にも成化年間と同様に生産が続いていたと思われるが伝世品は少なく、黄地緑彩あるいは黄地青花のものが目につく程度である。

景徳鎮では官窯である御器廠と、民窯で陶磁器生産が行われていた。しかし、嘉靖年間(1522-1566)頃からは御器廠への焼造命令が膨大にのぼったために、民間への焼造委託が行われるようになった。いわゆる「官搭民焼」の制度が定着していくのである。この結果、民窯にとっては生産技術の習得や品質管理といった面から民窯製品の製作水準が上がっていった。そして高級品を作る民窯が富裕階級の需要に応えていくようになった。この中には、古赤絵なども含まれる。嘉靖年間には多彩で華麗な五彩磁器が各種つくられ、また、文様の種類も増大していく。明代中期までの官窯製品に多く見られた龍文や鳳凰文、花鳥文、魚藻文、蓮池水禽文、牡丹文などが嘉靖年間には多様な変化を見せてくるのである。それまで官窯の伝統的な意匠として写し伝えられてきたのであるが、嘉靖年間にはその厳格な作風が衰退していく。つまり、吉祥文などの増加がめだってくる。これは、民窯に多く見られた傾向である。また、日本で金襴手と称される製品が万暦年間にかけて作られている。

隆慶年間(1567-1572)の官窯の焼造は、記録では一度だけであったとされ、「大明隆慶年造」という銘が記されている。 続く万暦年間(1573-1620)の五彩磁器の焼造は著しく器種が増大する。五彩で生産されたものと同様の器形や文様のものが青花でもつくられている。特に尊や香炉、燭台などの大型の調度類や筆箱、硯、筆管、筆架などの文房具類が目立ってくる。文様は器面一杯にほどこされるが、その画題は嘉靖年間のものの他、吉祥文の百鹿図や百蝠図のものなども作られる。そのほか、透かし彫りの製品も見られる。万暦前期の作風は比較的端正なものが多く見られるが、万暦年間後半に苛酷な操業命令が下るようになると、作風が荒れてくる。

景徳鎮の民窯では明末に「芙蓉手」と呼ばれる大型の盤が貿易陶磁として生産され、オランダ東インド会社によって、ヨーロッパなどに輸出された。明末には官窯にかわって民窯の生産が活発になっていく。官窯が衰退した天啓年間(1621-1627)頃から崇禎年間(1628-1644)には、日本で「古染付」とよばれている青花や、上絵を施した「天啓赤絵」が作られる。またそれに続いて「祥瑞」や上絵付を施した「色絵祥瑞」もつくられる。南京赤絵は広くヨーロッパ各地にまで輸出されている。福建省、広東省の各地の窯では粗製の五彩や青花が焼成された。なかでも、「呉州手」、「呉州赤絵」と呼ばれる磁器は福建省平和県を中心としたしょう州窯などで16世紀末から17世紀中葉にかけてつくられ、各地に輸出された。

清朝の初期には景徳鎮民窯で「トランジショナルスタイル(過渡期様式)」と呼ばれている欧州向けの青花などが焼成されている。

康煕19年(1680)頃に御器廠が再開され、景徳鎮は活況を呈する。万暦年間に見られた三彩磁器がこのころさらに洗練されたものとなり、雲龍文の暗花に石榴を描いた素三彩の盤が代表的なものである。五彩では文様が緻密で端正なものがふえてくる。明代では赤・黄・緑・紫・黒の上絵を用いていたのが、康煕年間(1662−1722)からはさまざまな色調のものが作られた。また、鮮紅色や天青色、嬌黄色などの単色釉のものも多く作られている。さらに、銅やガラスにほどこされていた琺瑯彩の技法が陶磁器に応用されるようになる。この琺瑯彩は素地を景徳鎮でつくり、宮廷内の内務府造辨処琺瑯作で絵付したものである。この琺瑯彩の技法を基礎として釉上彩の粉彩の技法が景徳鎮で開発される。粉彩に使う不透明な上絵具は色数も多く細密な描写や濃淡を表す技法に向いたものである。

この粉彩の技法は康煕年間にはじまったが、雍正年間(1723-1735)にはさらに微妙なグラデーションが表現できる粉彩の磁器が多数焼成され、写実的な花鳥文などが描かれた。この結果、官窯の青花磁器は新たな技法的展開もなく、衰退していく。粉彩の登場によって色絵磁器は一つの頂点をきわめた。

乾隆年間(1736-1795)には描かれる画題はさらに広がり、また粉彩の技法も一層精緻なものとなった。その結果、漆や石、木の質感を模倣した五彩磁器すら登場してくる。これらの陶磁器は、ある種の軽快さと遊びを感じさせる作品である。これらを陶磁器の堕落というよりも、むしろ前衛的な挑戦とも言える現代性がある。乾隆年間に焼成された「古月軒」とよばれるものや、西洋人物を描いた瓶なども宮廷内の琺瑯作で作られた琺瑯彩の代表作である。

(大阪市立東洋陶磁美術館 館長)