唐三彩について
ただいまご紹介いただきました出光美術館の弓場でございます。今日は、唐三彩についてお話をしたいと思います。
唐三彩は沖ノ島を始めとして日本各地から出ています(挿図No.1)。なかでも一番多く出てきたのが奈良の大安寺跡です。ここから一辺が15センチぐらいの箱形の陶枕が30個ぐらい出てきました(挿図No.2)。それから奈良の周辺の古いお寺の跡から同様の枕や、花瓶などのカケラがぽつぽつ出ています。ところが不幸なことに出てくるのは、みんな破片ばかりで、完品は一例も出てこない。ところがおとなりの韓国の慶州では新羅時代の石櫃の中から唐三彩のフク(挿図No.3)が一つ出てきました。これはほとんど完品です。中に骨が入っており、朝鮮製の佐波理の蓋がかぶさっていました。

実は唐三彩というのは中国以外で出土するのはきわめてまれで、日本がもっとも多い。それから韓国です。確実なのはこの二カ国だけです。しかし、中国国外でもう一例ごさいまして、エジプトのカイロ郊外のフスタートという中世の都市遺跡です。そこから唐三彩の皿の破片と鳥型の水注の頭の部分が出土していて、現在イタリアのファエンツァの陶磁博物館に保管されています。しかしこの一群のものは、はっきりした出土地の確証は出来ないということです。ですから中国以外では韓国と日本しかでていないといってもいいでしょう。
中国はどうかといいますと、唐の都、長安と洛陽を中心とした地域、即ち中原といわれる地域から大量に出土しています。それから河北省、山西省、山東省というようなところからも出てくる。出てまいります所の遺跡は現在知られているかぎり9割9分といって良いかと思いますが、すべて古墳から出てきております。中国の古墳というのは日本の古墳のように土盛があってその中にお墓があるというようなものではなくて、お墓の本体は地下にあって、10から20メートルというような深さに墓室を作るわけです。墓室にいたる隧道には色んな壁画が描かれています。隧道の下りきったところに墓室があり、そこに大きな石のお棺が納められています。

唐三彩はどういった所にあるかと言いますと、だいたい前述の隧道(甬道とも言う)の両側にある龕の中に納められています。
唐三彩にはいろんな種類がごさいまして、いろんな壺、花瓶、盤、鉢、皿というような器類、それから俑といいましていろんな動物や人物を象どったものもございます。動物としては馬、ラクダ(挿図No.4)、犬、鶏など。要するに生前、お墓の主人が見たであろうと思われる事物がすべて唐三彩という焼物で作られて、それらが全部お墓に納められています。ですから唐三彩は現在までのところ、ほとんどがお墓から出てきております。従って日常の生活の場で使われたものとはとうてい考えられない訳です。例えば唐・長安の都で有名な大明宮という奈良の平城宮を数倍大きくしたような宮殿がございますけれども、そこを中国の科学院考古研究所がずっと発掘しつづけましたが今までのところ一片も唐三彩は出てきていません。ですから唐三彩は、お墓に入れるための“明器”ということになります。
これは当然のことながら生活の場で使えるというものではないので、貿易陶磁として国外に出ることはあり得ないはずです。
不思議なのはその唐三彩が日本で沢山出土するということです。というのは、8世紀の日本を代表する文化人であった遣唐使が、はたしてこれを持って帰ったのでしょうか。このことがはなはだ疑問になってくるわけであります。なぜかと申しますと、さきほど申しましたように唐三彩というのは明器であって実用の器ではない。それを後生大事に持って帰るということがあったであろうかというのが、私がずっと持っております素朴な疑問です。加えて唐三彩は材質的に非常に脆いもので、遣唐使が唐三彩を都から陸路を経て寧波の港から遠路はるばる運んで来るかということです。

それからもう一つ、これは最近はっきりしたことでありますが、遣唐使というのは応々にして行きたくて行った人は一割ぐらいだといわれています。航路の安全性に疑問があったからです。
このようなことを考えるとどうも遣唐使、唐三彩、唐・長安の都という図式が成り立たない可能性が出てきたわけです。
そういうときに、韓国の慶州から一点見つかった。私はもちろん推測でありますけれども、実は唐三彩を日本に運んだのは、日本の遣唐使ではなくひょっとしたらおとなりの韓国を通じて日本に入ってきたのではないかということを、いつか本に書いたことがあります。私の見解は未だ充分な賛同を得ておりません。
まだ日本人は遣唐使、唐三彩という古き良き美しいイメージを捨てたくないようです。

さて、日本人は唐三彩が大好きです。日本でこの唐三彩が関心を持たれるようになったのは20世紀初頭のことで、唐三彩がこの世に産声を上げた時と同じです。
唐三彩は、20世紀の初めに開封から洛陽に至る鉄道敷設の工事が行われた際、進路方向にお墓があって、工事に邪魔なものですからそのお墓を取り除こうとしたときに、唐三彩がひょっこり出てきた。それが非常に色鮮やかな美しいものであったところから人々の注目を集めた。その唐三彩が出てきたところは、現在の洛陽の郊外ボウ山です。出てきた唐三彩は、北京にある有名な骨董街—琉瑠廠の店に出るやヨーロッパや日本の骨董商の目に止まり、世界のコレクターのもとへと納められていった。
次に唐三彩がいつごろ焼かれたのかということですが、唐三彩と一緒に出土する墓誌から判断しますと、710年前後から750年前後にかけて盛んに造られていることがわかりました。即ち、玄宗皇帝と楊貴妃の時代に当たります。
しかし、最近の研究によりますと始まりは650年前後まで上がっていくということがだんだん分かってきました。ですから650年から750年ぐらいの約100年間に、作られたのではと言われてます。

では唐三彩はどこで作られたのでしょうか。一つは河南省鞏県というところです。そこでは唐三彩のいろんな器や人形などが作られています。ところがこの窯は唐三彩だけを作っているわけではなく、白磁や青磁、天目などをも作っています。
それから最近分かりましたのは河北省のケイ州窯という窯です。この窯は唐時代に白磁を製造した窯として非常に有名です。それから一番最近出てきましたのは陜西省銅川市にある耀州窯です。ここは中国の北方青磁を焼いた窯としてよく知られています。作品としては、もうすこしローカルな唐三彩(挿図No.5)です。制作時代も100年くらい後になります。
以上から現在のところ唐三彩は、河南省、河北省を中心にした地域で作られて、それが河南省、河北省、陜西省というような地域の王陵、貴族等のお墓に葬るために作られたというようなことがだいたいわかってきました。
唐三彩を見ておりますと、器形はその時代の風潮、流行りなどから、非常に強いインパクトを受けて作られていると思います。例えば、金、銀、銅などの器(挿図No.6.7)を見ると、それらからの形、模様、質感などの面で大変強い影響を受けていることが感じられます。
唐三彩はやはり美しいというか、色鮮やかというか、日本人の好きな焼物です。その証拠に日本では唐三彩を奈良三彩という焼物に写しております。有名な正倉院御物の中にもございます。しかし、唐三彩と奈良三彩をよくみますと、奈良三彩の一番多いのは壺とか鉢で、奈良三彩の馬やラクダというものはございません。日本人はそこまで作ってはいない訳です。

それから朝鮮では新羅三彩というものを作っております。しかしこれは奈良三彩ほどには発達しなかったようです。
それから西の方へ行きますと、ペルシャ三彩というのがあります。イラン、イラク及びエジプト等で作られた三彩ですが、これも中国の唐三彩と似ています。
本家の中国の三彩の歴史は、唐の中頃(750年前後)を期して衰退をするわけですが、その後再び50年くらいしてまた復活します。しかしこの時の三彩(俗に晩唐三彩という)は前期の脆くて柔らかい三彩に比べて、大変かたく焼き締まっており、非常に堅牢にできています。実用の器としても十分耐えうるようなものです。それがやがては宋三彩へ移り、また北辺に移りますと遼三彩というようになるわけです。このようにして三彩の伝統は脈々と受け継がれ、明にいたっては法花という焼物に、さらに清朝にまいりますと素三彩というものになります。これはもう陶器ではなくて磁器の三彩になっています。しかし技法的には近いものがありますから、そういったところに影響をもっていくことができます。
ざっと唐三彩の歴史をご紹介してきたわけですが、後はスライドを通して若干の補足を行いたいと思います。(文責 友の会事務局)

プロフィール
弓場紀知 氏

1947年奈良県生まれ。九州大学文学部大学院終了(考古学専攻)。
出光美術館学芸課長。東洋陶磁学会常任委員、日本陶磁協会理事。
主な編著訳書は、『中国陶磁通史』(平凡社)、『上海博物館 中国・美の名宝』(日本放送出版協会)など。
日時:平成4年5月30日(土)午後1時半〜3時半
会場:中之島中央公会堂・3階中集会室
講師:出光美術館学芸課長 弓場紀知氏
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