友の会通信

宋代の陶磁
宋の陶磁器と申しますと、器形・釉の美しさ、文様の素晴らしさが知られていますが、それがいつ頃からどのように出来上がっていったかということについてお話します。いろいろな考え方がありますが、私はこれはやはり宋の時代の社会・文化が全般に渡ってその成立に関わっていると考えております。唐時代に比べて宋の時代には、非常にたくさんの窯が各地に起こり、器形・釉・文様の点で特徴のある陶磁器を作り出しました。また、陶磁器を生活の道具として使うことが一般的になり生産量も遥かに増えました。唐の時代でも生活の場で陶磁器が使われてはいましたが、実用品として、とくに素晴らしい陶磁器を使うという雰囲気はまだなかったと考えられます。特別なものはやはり貴族のためのもので、例えば越州窯の青磁や?州窯の白磁があげられます。唐三彩にしても貴族のお墓に納めるためのものでした。9世紀から10世紀、唐末五代の時期に急激に窯が増えてくるのは、陶磁器を使う人が増えてくるためです。また、日常使用の陶磁器を美しいものに仕上げることがその頃から始まり、これにともなって器種・器形とも多様化してきます。唐末五代から宋代にかけての陶磁器というのは、生活の中で使うにはどういう形が最も相応しいか、どのようにしたらそれを美しく仕上げることが出来るかという点に工夫をして作られています。これはやはり唐末五代以降の都市の発生、そこでの活発な商業活動ということがあり、その中で陶磁器が商品として扱われ、生活の中に大きく位置を占めていくという変化があります。商品としての陶磁器は丈夫で、使いよく、かつ美しいものでなければならない。そこでいろいろと工夫が行われて洗練されていくということだと思います。

まず器形に関して、唐時代の陶磁器の形は、金属器・漆器・玉器などが基本にあり、そこに土の持つ柔かみが上手に生かされて独特の形が出来上がっています。ただ唐時代の器形には実用の面では問題があるように思います。実用性というのが表に出てこない、少なくとも美しさの中に実用性が生かされていない。ところが、宋のやきものはすべて実用的な形に作られていて、特に口や底の作り方が非常に丁寧で、しかも使い良いような形に仕上げている。それから把手や注ぎ口などの各部がそれぞれに美しく、例えば破片を見てその時代の特徴がわかるということが宋代のやきものについては言えるような気がします。そういう部分的な特徴をまとめて全体が出来上がり、全体として見ても形がよく整っているということが、宋時代のやきものの大きな特徴のように思います。そして、宋時代らしい形式がどのように出来上がったかに関しましては、地域や陶磁器の種類などによってそれぞれ違いがあり、まだ十分資料が揃っていない状態ですが、ほぼ9世紀代から始まって10世紀を経て11世紀の前半ぐらいまでの間に宋代らしい美しさというものが出来上がっていくと考えております。

文様に関しましては、唐代のやきものはあまり特別の文様がないというのが一般的です。湖南省の長沙窯のような絵文様の例もありますが、一般的には文様を意識的に付けるというのは唐時代の作品ではあまりない。やきものらしい文様というのは唐の終りから五代の頃に始まっているように思います。まず、素地に線を彫って文様にするとことが始まりのようで、10世紀代の越州窯、定窯などの作品に例が見られます。続いて浮彫りふうに丁寧に深く全体にわたって文様を彫るやり方が、10世紀の終りから11世紀の初めにかけて各地で行われたようです。浮彫りふうの文様というのは、いわゆる「東窯」といわれる青磁が典型的なもので、定窯の白磁、越州窯の青磁、磁州窯の白化粧陶器などでもみられます。線彫りに比べて浮彫りは、はっきりした文様になりますが、それをさらに効果的にみせるためにいろいろ工夫をします。例えば耀州窯における片切り彫りという手法、浅く掘りながら浮彫りふうの効果をあげる手法です。簡単な彫りでしかも立体感を与えるような手法がその後非常に流行し、特に龍泉窯、定窯などでその手法が洗練されていきます。だいたい11世紀中頃から後、非常に幅広く各地でそれぞれ特徴のある彫り文様が出来上がってきます。その次に型押しで文様を付けることも出てきます。型を使うことは早くから行われていましたが、宋時代には量産の目的でこれが取り入れられました。これは青白磁の場合に特に多いようです。特に福建省のあたりで12世紀以降輸出用に作ったもの、例えば日本でよく出土する合子などのように、文様だけでなくて全体も型で作ったものがいろいろと出てきます。

磁州窯の白化粧陶器の場合には少し違った展開をします。磁州窯の場合は鉄分を少し含んだ粗い調子の土に白化粧をして、それに透明釉をかけて焼きあげるのが特徴です。文様はこの白化粧の上から彫って表します。すると白化粧を削り取って下の鼠色の素地が出るものですから、一般の白磁と比べますとわかりやすい文様になります。あるいはまた白化粧を掻き落して文様をつける。これは先程の浮き彫りの文様に近い結果を素地の色と白化粧との対比で表現したものです。さらに白化粧の上にもう一回黒い絵の具をかけ、それを削りとって文様をつける、白地黒掻き落しと呼ぶ手法が、12世紀の初めごろから行われます。黒と白で文様が非常にはっきり出てくるわけです。それに続いて黒い鉄絵の具を筆につけて文様を描くというのが磁州窯で始まっていましてこれも11世紀のごく終りから12世紀の初めにかけてだんだん出来上がるらしく、筆でものを描くということが磁州窯系統の窯で盛んになってまいります。白地に非常にはっきりした黒い文様を自由自在に描く。中国の南の方の窯でもどういうわけかこの頃に鉄絵の具を使って文様をつけることが盛んになっています。例えば広東省広州西村窯、江西省の吉州窯などがあげられます。これらに関しては磁州窯の影響がよく言われますが、どういう影響かというのはいろいろ問題があります。ただ、吉州窯の場合には白化粧をせずに直接素地に黒く描くので、磁州窯のようにはっきりした文様にでないことが多い。また、釉も非常に薄くかけています。その後に出てくるのが磁器に筆で文様を描く染付で、これはそういった宋時代の後半の傾向が一つ完成された形で出てきたのが染付であろうと私は考えています。染付の場合には白磁の素地にコバルトを使って文様を描き、釉をかけて高温で焼く。非常に綺麗な白い肌のところに青い文様が出るわけで、磁州窯の鉄絵とはだいぶ違った、色合としても美しいものになるわけで、以後は筆描きの文様が中国の陶磁器の文様の中心になるのですが、その始まりが宋時代の後半にあったとみているわけです。

最後に最も重要な問題として釉の問題があります。例えば唐の時代の「茶経」という書物にたくさんの窯の名前があげられていますが、青磁と白磁の窯がほとんどです。また、三彩に関しては、実用性がない明器として使われるので、あまり一般的ではありません。従って唐時代の釉としては、青磁と白磁が主流であったと言えましょう。10世紀代を代表するやきものも青磁と白磁で、例えば?州窯の白磁、定窯の白磁それから越州窯の秘色と呼ばれる非常に美しい皇室への献上用としての青磁などです。「秘色青磁」というのは、記録の上では早くから有名だったのですが、近年になって陝西省の法門寺から記録と一緒になる遺品が発見されました。従来知られていた越州窯の青磁とは全く違った、非常に綺麗な、明るい感じの青磁でした。

そういった10世紀代に一部で作られていた大変美しい陶磁器を再現できるようになったのが、?州窯や汝窯の青磁であったりするわけです。非常にむらのない、明るい感じの釉が宋代に入って完成されていく。しかも少量を特別に焼くのではなく、量産をしながら非常に美しい青磁の釉が出来上がっていくことが興味の深いところです。定窯ではかなり白い美しい肌に、わずかに黄色みをおびた釉のかかったものが盛んに作られております。これは宋時代の白磁の釉のピークといっていいようなもので、これと対象的なのが青白磁で、青白磁に関しては出来上がってくる過程がはっきりおさえられないのですが、だいたい11世紀の中頃には完成して、その後非常に素晴らしい青白磁が大量に作られるようになる。それから江西省の南豊窯、広東省の潮州窯など各地でそういったものを焼く窯が増えています。一方で定窯のクリーム色の白磁、一方では青白磁のような青味をおびた白磁、この二つが宋時代の白磁の釉の典型的なものです。また、青磁の方は先程ちょっと触れました汝窯。窯跡の出土品を見ますとここでは非常に明るい調子の青磁と、失透性の青磁とを作っていたようです。この失透性の青磁釉が後々鈞窯として北の方で盛んに作られるようになり、一方明るい調子の釉の方は北宋官窯とも、汝官窯ともいわれるいわゆる官窯タイプと言われる青磁のもとになっているんじゃないかと考えられます。北宋官窯を真似したのが南宋官窯ということになっていますが、北宋官窯から南宋官窯への移行というのは、やはり未だ確認出来ていません。しかし、南宋官窯とは杭州の近郊にあった修内司窯と考えられています。それから郊壇窯、これは非常に特徴のある青磁ですが、最近では龍泉窯でもそっくりのものを焼いているということがわかってまいりまして、龍泉窯の倣官窯の割合がどの程度のものであるかというのが大変問題になっています。また砧青磁と呼ばれる非常に明るい調子の美しい青磁も、やがて龍泉窯で出て参ります。全体的にみますと、龍泉窯の青磁はもっといろんな種類の、すこし赤味をおびたもの、少し黄色みをおびたもの、鼠色のような感じの釉など、さほど美しくないものが大量生産され、輸出にも使われていました。砧青磁に関しては、従来宋時代といわれていたようなものが韓国の新安沖の引き上げ文物の中にたくさんあり、これらが元の14世紀の20年代の資料ということから、かなり時代が下がる例も多いということは確かなようですが、どこから元時代に入るかというのはなかなかきめにくいようです。それから黒い釉がありますが、これは中国各地で焼かれており、各地各様の黒い釉があります。福建省の建窯では、特別に釉の洗練というのがあったようでして、一種の結晶釉が発達しています。これは日本に伝わっている建盞といわれる天目茶碗に非常によく窺えるところであります。また玳皮天目と呼んでおります、釉を二重にかけてべっこうのような調子を作り出すやり方があります。おそらく南宋時代に盛んに作られるわけですが、これは非常に特殊な例と言っていいでしょう。しかし宋代陶磁の主体としては青磁・白磁でありまして、それも器の美しさと釉の美しさが非常に釣り合って見事な作品が作り出されているということであります。

このようにみてまいりますと、宋時代のやきものはいろんな種類のものがいろいろと工夫されて出てきますが、全体の流れとしては11世紀の後半から 12世紀にかけてがピークで、非常に形の整ったもの、実用的でしかも美しい作品が各地で作られているということが言えると思います。
(この後、スライドをみながら個々の作品を通じて具体的な解説がなされました。)
講演会要旨 野村恵子

プロフィール
長谷部楽爾 氏

1928年仙台市生まれ。東京大学文学部美学美術史学科卒業。
文化財保護委員会美術工芸課、東京国立博物館次長を経て、
現在恵泉女学園大学教授。東洋陶磁史を研究。
主な著書に、『請来美術—陶芸』(原色日本の美術30・小学館)、
『陶器講座朝鮮Ⅰ・高麗』(雄山閣)
『高麗の青磁』(陶磁体系29・平凡社)ほか多数。
日時:平成6年5月7日(土)午後1時半〜3時半
会場:中之島中央公会堂・3階中集会室
講師:惠泉女学園大学教授 長谷部楽爾
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