友の会通信

中国の青磁鉄絵について
現在開催中の高麗の鉄絵鉄彩展に因み、中国の鉄絵についてお話し致します。

陶磁器に鉄を使って色をつけることは、古くからあり、これには釉と絵具、即ち鉄釉と鉄絵具とがあります。鉄というのは、やきものを作る上で、良くも悪くも働く。例えば白磁を焼く場合、鉄分が入ると色が濁るため、それを極力排除する努力が必要になります。しかしどうしても取りきれない場合、黄味や青味を帯び、それが各地の白磁の特徴になる訳です。青磁の場合も同様に鉄分の量により、様々な色合いが出ます。従って釉や生地にとって、鉄分は非常に微妙な存在です。しかし同時に、やきもの性質を特徴付ける働きもする訳です。特に絵具としての鉄は、黄色や褐色の絵具、青磁釉、赤の上絵具など実に多様な変化をみせます。この鉄分を絵具として一番単純な形で用いたのが鉄絵です。

やきものの装飾は、例えば日本の縄文土器にも見られるように初期のものは、彫刻・貼花・型押など素地に装飾をつけるという形で行われてきています。やがて釉の出現を見るようになりますが、その場合も、初めのうちは素地に付ける文様というものが主力です。次第に釉の色合いとか、数種類の釉のかけ合わせへと発展してまいります。例えば漢時代の緑釉、褐釉などの鉛釉で始まり、三彩という一つの完成された形が唐時代に出来上ります。一方では、釉の上や下に文様を描くことが、ある時期から始まり、鉄絵もこの部類に入る訳です。生地を純白にして、それに透明釉を掛けることによって白磁が出来上りますが、釉下に文様を描くことは、白磁の完成により可能になってまいります。それはほぼ6世紀頃と考えていいでしょう。鉄が一番発色させ易い金属であることを考えると、同じ頃に鉄を使った文様が始まってもよさそうなものですが、実際には鉄絵具よりもむしろ黒い釉が、ずっと早く青磁と同じ頃に出てくるようです。青磁の釉は微量の鉄分により発色しますが、その分量を増やしていくと褐色から黒に近付きその最たるものが黒釉だと思われます。即ち、顔料として最初の金属が鉄であり、それを用いた最初の色釉が黒釉でありましょう。例えば、古越磁の場合、青磁の発色が美しい色合いになかなか出来上らないのに比べ、黒釉は、最初から濃い真黒な釉として完成された形で出てまいります。このことから黒釉というものは、案外色のあるやきものの原点なのかもしれないという気がしてまいります。白磁が完成した段階では、釉下にその黒釉を用いて簡単な装飾が行われることがあります。この場合、装飾部分は盛り上っております。この手の遺品は少ないものです。

実際に釉下に絵具を使っての文様は、唐時代の遅い時期(9世紀頃)の湖南省・長沙の青磁鉄絵が最初だと考えられています。絵具として鉄だけでなく銅も使い、褐色と緑色の2色を使い分けて、鳥・人物・花・動物等の文様を水注(Fig.1)の胴部や盤の内面に描き、かなり完成されたものになっています。類品は同時期に四川省で作られた位で多くはなく、長沙の鉄絵或いは彩画として有名なものです。ただこの種の作品には成分の問題か、または文様を描く際の技法的な問題かわかりませんが、表面がすこし凹んだり、がさがさした感じに出来上り、後の鉄絵とは少し違った雰囲気があります。いずれにしても9世紀の早い段階に釉下に絵付を施した青磁鉄絵が行われた訳です。しかしこの技法も10世紀の前半頃から作られないようになります。この時期には、長沙窯の系統といえるかどうかわかりませんが、越州窯でも青磁鉄絵がごく少量焼かれていることが最近の発掘調査でわかってまいりました。当時の浙江省北部の呉越国の支配者・銭氏一族の墳墓から、青磁鉄絵が青磁に混ざって少量出てまいります。この場合には、青磁の釉下に鉄絵を施し装飾することに、何か特別な意味があったのかも知れません。中国では、長沙の鉄絵との関係が注目されていますが、確証はないようです。ところで青磁と鉄絵との関係については、三国・南朝の時期の古越磁に、その前兆を見ることができると言えましょう。初期には、器の上に何かをのせる、或いは支えるために土をのせて焼き上げる。焼成後、そこに含まれる鉄分により斑点として残る。それが次第に装飾化され、意図的に壺の肩などにつけられるようになる。これが今日違例として見ることの出来る鉄斑文の青磁です。その鉄斑が次第に洗練され、特別な状態で表われてまいりますのが、10世紀頃の青磁鉄絵として考えらるのではないでしょうか。そして越州窯系統のやきものが中国の南の方に伝播するにつれて鉄絵の手法も伝わっていったと考えられます。といいますのも、越州窯系統の龍泉窯や、11世紀か12世紀頃の広東周辺のやきものなどの中に、鉄絵具の装飾がみられますし、それ以外にも各地で少しずつ鉄絵のものがでてまいります。従って、起源としては唐末ぐらいに長沙、或いは越州窯で始まった鉄絵が、およそ12世紀から14世紀頃には南部の各地で盛んに作られるようになります。

北の方では、河北省の磁県を中心に磁州窯系のやきものが、華北の非常に広い地域で随分やかれています。これは、生地に白泥を流しかけてその上を鉄絵で装飾し、透明な釉をかけて焼くものです。白泥による白地と鉄絵具の装飾が結びつき、金・元時代には非常に華やかな展開をみせます。

一方南の方で最初に注目されたのは、広州市郊外の皇帝岡という丘の宋代の窯で、青磁、白磁などの出土品の中に混ざって青磁鉄絵がありました。私の博物館に、それと類似した東南アジア渡来の牡丹文大皿(Fig.2)があります。この皿の類品が、広州西村の窯跡で発見されたことで、広東でも鉄絵を宋代に盛んに焼いたことが判ってきました。

次に数年前ですが、福建省の泉州市郊外の童子山付近で、鉄絵を焼いた窯が発見されました。今は「磁竈窯」と呼ばれています。この窯の作品はソウルの博物館の蛸の文様の大皿に代表されるものです。以前私共の館の「日本出土の中国陶磁展」の際に展示した、各地出土の中国陶磁片の中にも、この手の鉄絵が何点かありました。また、いわゆる影青系統の中にも花文などの簡単な鉄絵文様があり、これも器形等から考えますと福建省でありましょう。

もう一つ重要な窯が江西省の吉州窯で、実に見事な鉄絵を焼いています。1930ね年代に英国の研究者、ブランクストンが、永和鎖の吉州窯々址で、鉄絵文様の破片を採集し、報告しました。それと同じ手法で、全体に鉄絵文様がびっしり描かれた大形の花瓶(Fig.3)が、大英博物館にあります。特に波文については、元の青花の波文に近い雰囲気があります。当時はまだ、元の青花を吉州窯に結びつけはしませんでしたが、少なくとも大英博物館の花瓶は、吉州窯のものであると、確か1938年に発表しています。新中国建国後、1950年代頃には、吉州窯々址を調査した中国人が、小冊子の報告を出し、その中には興味深い資料が多くみられます。吉州窯の破片はその後、日本や東南アジアなどでも多数出土することが判ってまいりました。最初に私が見たのは、広島県の草戸干軒遺跡出土の陶片です。当初は磁州窯の鉄絵と混同されていましたが、最近では各地で多数の破片が発見されています。吉州窯では、ある時期このように大量に鉄絵をやいた。時代が明らかで最も古いものは、12世紀末の年号のある墳墓から出土した鹿文様の小壺です。これを基準に考えますと、鉄絵の製作はほぼ 12世紀末から14世紀初頭までではないか。というのは、吉州窯の鉄絵の瓶が、韓国・新安沖引上遺物の中に1点あり、一緒に発見された木札の1323年という年号からほぼ同じ頃の作品と考えられ、13〜14世紀という時期がおさえられる訳です。中国では、磁州窯の鉄絵技法が、吉州窯へ伝わったという説が有力で、これは北宋末期に北方の侵入者から逃れて南下した人達が、南宋の時代に活躍したという考え方と結びつくものです。確かに似た感じの文様があるので或いはそういう可能性もあるかもしれません。また、江西省の鉄絵は元の青花の文様によく似ており、私はおそらく鉄絵の技術が下地にあり、コバルトの使用が発見された時点で、鉄をコバルトに置きかえて染付が始まるのだろうと考えるのですが、染付の起源とある程度関わっていると見て間違いないでしょう。以上のように北方の磁州窯系の鉄絵の場合は宋以降、技術的には近代まで続くのに対し、南方では元のある時期に姿を消し、後に青花に譲るようです。

以上のように中国の鉄絵を考えた場合、釉下彩の一番安定した手法がこの鉄絵であると言えます。他の、例えば銅は、黒ずんだり、色がとんだりしがちで、釉下彩の絵具としては非常に不安定で、むしろコバルトの方が遥かに安定した顔料です。それ以上に鉄の方が身近で、扱い易い材料であったため、まず鉄絵が広範囲で多様に展開したのでありましょう。その場合濃淡表現に向かないという鉄絵具の性質上、線描きや塗り潰しなどによる非常にはっきりした文様になります。染付には色の濃淡による細かい文様が早くからありますが、鉄絵ではその例は非常に稀で、シルエット風や線描きの手法ではっきりした文様が描かれます。鉄絵の白と黒は非常にくっきりしたモダンな感じですが、染付に比べると、文様に幅がない。また白磁は磁器の一つの頂点であり、ブルーの文様もそれにふさわしい色合いな訳で、それが現在に至るまで青花が釉下彩磁の中心であり続けた理由でありましょう。部分的に鉄絵具の装飾をもつものは、志野、唐津、タイやベトナム、高麗の鉄絵、李朝の鉄砂などがありますので、技術的には使いやすい材料だったでしょうが、しかしやはり幅が広くないためにそれ以上の展開をみることなく、青花にとって代わられることになったのではないかと考えております。
(この後、スライドを使って、個々の作品を通じて詳細な解説がなされました。)

注:写真は下記の著書より転載しました。
世界陶磁全集」12・13(小学館)、「近年発見の窯址出土中国陶磁展」(出光美術館) (文責:友の会事務局)

プロフィール
長谷部楽爾 氏

1928年仙台市生れ。東京大学文学部美学美術史学科卒業。
文化財保護委員会美術工芸課を経て、現在東京国立博物館次長。東洋陶磁史を研究。
主な著書に、『請来美術−陶芸』(原色日本の美術30、小学館)、
『陶器講座朝鮮Ⅰ、高麗』(雄山閣)、『高麗の青磁』(陶磁大系29、平凡社)ほか。
日時:昭和62年3月7日(土)午後1時半〜3時半
会場:大阪市立東洋陶磁美術館講堂
講師:東京国立博物館次長 長谷部楽爾

大阪市立東洋陶磁美術館
館長 伊藤郁太郎
(日本語) 友の会通信一覧へ戻る