『波山陶芸の魅力について』
板谷波山は、関東では絶大な人気がありますが、関西では本格的に紹介されることがなかった為に、関東ほど知られていません。丁度画家でいえば、横山大観に対して竹内栖鳳の感じと思って戴ければいいかと思います。同じように陶芸界では東の板谷波山に対して、西の清水六兵衛、或は富本憲吉といった感じでしょうか。

板谷波山は茨城県下館市で生れています。ここは城下町で、板谷家は江戸時代以来の木綿問屋で、生家はその分家に当たり、醤油醸造を家業としながら雑貨も扱っていました。裕福な家庭で育っています。父の増太郎は、家業のかたわら「半痴」という画号をもち文人画をよくし、三味線、和歌などを嗜む風流人でした。波山が10才の時に父は他界しますが、その後質実厳格な母のもとで育てられています。波山は、父から風流を、母からは厳格なしつけを学んで育っています。後年、波山は他人に優しく、謙虚で、自分に対し厳しい人であったと言われる所以がここにあります。

波山の優しさについてお話しましょう。波山自身は還暦を迎えた昭和8年から昭和26年の間、下館市の高齢者の方に、鳩のやきものを杖の先につけた “鳩杖”を配り続け、その数は281本に及んでいます。また、日中戦争及び第二次世界大戦で亡くなられた遺族には、観音像や香炉を慰霊の為に319体作り、昭和13年から31年にかけて、84才になる迄贈り続けられています。このよう心根が優しく、思いやりがある方であったと思います。

ところが、自分に対しては非常に厳しい人であったと言われています。明治36年(1903)、31才の時、東京で陶芸家として独立しますが、作品は一向に売れません。食べるものもなく、借金は増えます。まる夫人がほんの少しの傷のあるぐらいの作品なら売ろうと言いますが、波山は頑として首を縦に振りません。ある時、夫人があまり言うので一度許したことがありました。しかし、奥さんがそれを持って行く間、他は全て割ってしまいました。家もそまつなもので掘建て小屋のようだったといいます。後年、波山が帝展審査員になり、少しはお金もできましたので改築をしますが、そこには子供たちを住ませ、自分と奥さんは依然としてバラック同然の工房に住んでいました。こういう波山の窮状を見かねた周囲の人々は、波山の頒布会を組織します。しかし、波山は頒布会といっても自分の意に叶うものしか出しませんでした。美術学校で学んだ波山は、絵画、彫刻などと同じレベルにやきものを見ていましたから、不満足なものでも金になればいいという事には我慢出来なかったようです。生前、小山冨士夫氏は波山の作陶について、「恐らく年間20点しか世に出していないだろう」と言っておられました。波山は実質60年間作陶を続けていますので、世に出た作品は1200点前後ということになります。寡作な作家であったと言えます。ちなみに、河井寛次郎は生涯に3〜4万個制作しています。

以上の話は表だっての話であります。ここからは板谷波山の芸術を理解する上で、隠し味的な人柄をしのばせるエピソードを探ってみましょう。

趣味人としての波山。波山は東京美術学校卒業後、石川県工業学校の彫刻科の教諭として赴任しますが、そこで宝生流の謡にのめり込みます。以後、生涯に亘って謡の本を座右の書として肌身離さず置いています。大変な謡好きです。また、大正3年発行の「美術新報」という雑誌の中で、美術家の道楽というアンケートの中で、波山は『趣味は尺八』と書いています。尺八も十分嗜んだことが窺えます。この辺は、父親の芸術的な資質を受け継いだものと考えられます。

次に、美術学校時代のエピソード。波山は卒業作品として「木彫元禄美人」を制作しています。彼はこの作品を作る時、自身で若衆姿をしてみてたまらなくなり、ついに丸袖の元禄風の衣装を着て、細帯をしめ、革の足袋に雪駄を履き、その姿で美術学校の界隈を得意になって歩いたと言われています。波山は大変に美男子で、上野の界隈では“今業平”と言われていました。詩人の高村光太郎の随筆『私の青銅時代』の中にも、その事がでて参ります。「父の弟子の板谷波山さんは、美男の上に非常におしゃれで、元禄の着物を着て芝居に出てくるような服装をして歩いていた」と書いています。光太郎の父、光雲は、東京美術学校の彫刻科教授でしたので、この話は事実であろうと思われます。

凝り性のエピソードをもう一つ。これは金沢時代のものですが、彼は金沢に赴任してからも下駄は当時高級店として知られていた浅草の“長谷川”から取り寄せています。また、石鹸はフランス製でないと使わなかったと言われています。東京高等工業学校(現東京工業大学)時代の教え子の一人、彫刻科の吉田三郎(元日本芸術院会員)は、波山が好きで、その影響で美術学校に行き芸術家になった人ですが、何故波山先生が大好きであるかというと、『先生の後を歩くと大変いい匂いがするのです』と、彼の回想録に書いています。恐らく香水かオーデコロンをつけていたのでしょう。この他にも、お孫さんたちの思い出の中に多くのおしゃれな板谷波山が登場してきます。以上のように波山の人間的なエピソードを知りますと、彼の陶芸の本質ともいえる、エレガントで叙情的な雰囲気は、波山の人柄そのものに由来するように思われます。

次に波山が“陶芸の先駆者”と言われている要因についてお話しましょう。始めに、やきものの生産についてですが、江戸時代以来やきものの産地では窯株というものがあって、新規の窯は絶対に造れませんでした。そして、窯元はやきもの全体について絶対的な権力を持っていました。そんな風潮の中で波山は、まったくの素人から入って、奥さんと二人三脚で手作りの窯を造って、焼いて、展覧会に出品するということをやっています。これはその後に輩出する、個人作家の先駆者的活動と言えます。波山より10年のちに東京美術学校に入学した富元憲吉は、「自分は東京美術学校時代、作陶家の中で只一人知っていたのは波山先生だけでした」と言っています。また、河井寛次郎や浜田庄司は、波山が東京高等工業学校で直接教えた生徒で、彼らは波山に心酔しておりました。さらに楠部弥一の彩磁の仕事も、波山なくては成立し得なかったと言われています。

また、絵付けについては明治の輸出陶磁に見られた富士山の絵などの日本趣味の絵付けから脱却して、当時ヨーロッパで流行していたアールヌーヴォ—様式を取り入れ、器と曲線を一体化した作品や、イタリアで発達したマジョリカの作品も試作しています。

さらに、東京美術学校という最高学府で教育を受けた人がやきものをするというのは、その当時は、よほど変わった人であったと思われていたようです。波山は彫刻科を卒業していることから、その装飾手法は薄肉彫りというより木彫りの技法を導入しています。波山陶芸の大きな特徴です。また全体的な形に対して、鋭敏な感覚を発揮しています。波山は自身でロクロを引かないで、現田市松さんにまかせていますが、彼の話によりますと、波山は必ず斜め45度下にロクロ台を置かせていたということです。現田さんの癖を知っていて、的確なアドバイスをしていたものと思います。ですからロクロは引かなくても、そこには波山の形が出ています。従って、その形の鋭敏さに彫刻科出身の波山ならではの世界が見られます。また波山は形、文様、色というものを一体化して考えた最初の人と言えます。それまではロクロはロクロ師、絵付は絵付師というように分かれていました。そして明治から大正にかけての作家は、当然有田、金沢、京都などの窯業地の人が多かったわけですが、波山の出現によって素人の出身者でも作陶ができるし、美術学校出身者でも陶芸家になれるという、今日の陶芸界ではあたりまえになっていることの先駆的な役割を果たしたということになります。

プロフィール
中ノ堂 一信

昭和21年生まれ。立命館大学文学部卒業。大阪工業高等専門学校講師、京都府総合資料館学芸員、東京国立近代美術館主任研究官を経て、現在国立国際美術館学芸課長。
主な著書に、『京都窯芸史』、『陶芸の絵文様—現代編—』、『富本憲吉全集』(共編)など。平成6年より『茶道雑誌』に「近代の陶芸家たち」を連載中。
日時:平成7年6月3日(土)午後1時半〜3時半
会場:中之島中央公会堂 3階中集会室
講師:国立国際美術館学芸課長 中ノ堂 一信
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