緑釉水榭(りょくゆうすいしゃ)

WATERSIDE PAVILION,
Green glazed earthenware

後漢時代・1~ 2世紀 / 海野信義氏寄贈

Eastern Han dynasty, 1st-2nd century

h: 58.0 d: 37.4 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

水榭(すいしゃ)とは、池の中に立つ楼閣のことです。池は鉢状の容器で表されており、中央に二階建ての楼閣がそびえ立ちます。鉢の口縁部や内面には池の中に放し飼いされている鴨が置かれています。楼閣の一階部分はかなり高く、正面中央に扉が設けられやや開いた状態になっています。二階の欄干(らんかん)の四隅には弩(ど)(いしゆみ)を構えた人物が配され、見張り台のようになっています。屋根は寄せ棟造りです。こうした水榭や高層建築は裕福な豪族の象徴ともいえるもので、同時に当時の建築技術を知る上でも貴重な資料です。



緑釉倉(りょくゆうそう)

STOREHOUSE,
Green glazed earthenware

後漢時代・1~ 2世紀 / 海野信義氏寄贈

Eastern Han dynasty, 1st-2nd century

h: 37.6 w: 41.8×20.2 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

極めて大型の長方形の穀物倉庫です。漢代の倉庫には方形と円形の大きく二種類あり、前者は倉(そう)、後者は囷(きん)と呼ばれています。正面には観音開きの門扉が付き、わずかに開いた状態となっています。内部には台上に侍僕が坐しているのがうかがえます。建築明器の倉には実際に穀物が入っていたり表現されたりすることはほとんどありませんが、穀物を運ぶ侍僕を置くことで倉の性格を象徴したのでしょうか。底部には辟邪(へきじゃ:魔除け)の効能があるとされる熊の姿を表した四足が付けられ、高床状になっています。こうした倉には死後の世界での豊かな食生活への願いが込められているのでしょう。



緑釉猪圏(りょくゆうちょけん)

PIGSTY,
Green glazed earthenware

後漢時代・1~ 2世紀 / 海野信義氏寄贈

Eastern Han dynasty, 1st-2nd century

h: 20.6 w: 27.1 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

猪圏とは厠(かわや)と豚小屋(豚舎)とが一つになったもので、現在でも中国の農村部では一部に見られます。人間の排泄物がそのまま豚の飼料となる一石二鳥の「エコ」な仕組みです。はしごを上って円筒形で寄せ棟造りの屋根が付く厠へ入ると、中には楕円形の穴があいているだけの簡素なつくりです。円形の鉢状のものを変形させてつくられた豚小屋には豚が一匹、長方形に開けられた入口の方を向いています。こうした猪圏は井戸や竈(かまど)とともに当時の墓の明器の必需品でした。



緑釉鴨(りょくゆうかも)

FIGURE OF A DUCK,
Green glazed earthenware

後漢時代・1~ 2世紀 / 海野信義氏寄贈

Eastern Han dynasty, 1st-2nd century

h: 18.2 w: 25.7×11.3 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

鴨も漢代にすでに飼育されており、池の中に放し飼いにされていたことが明器や画像磚などからもうかがえます。こうした鴨は当然ながら食用であり、あの世での豊かな食生活への願いがこうした鴨の副葬にも反映されているのでしょう。型による成形で、赤みを帯びた胎土に緑釉がかけられ、緑釉は「銀化(ぎんか)」現象(土中で表面に膜のようなものが生じ銀色を呈するようになること)が生じています。鴨の腹は中空となっており、両面の型を成形された接合部分にヘラ削りが見られます。



緑釉犬(りょくゆういぬ)

FIGURE OF A DOG,
Green glazed earthenware

後漢時代・1~ 2世紀 / 海野信義氏寄贈

Eastern Han dynasty, 1st-2nd century

h: 22.3 w: 23.9×9.5 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

漢時代には低火度鉛釉の緑釉や褐釉が施された建築模型や動物模型などの明器の副葬が流行しました。動物模型によく見られるのがこうした犬です。漢代にはすでに犬が番犬として飼育されており、首から前肢に見られるベルトからもそのことがうかがえます。墓の中でも番犬としての役割を期待されたのでしょう。左右両面の型とへら削りによる成形で、今にも動き出しそ うな犬の一瞬が見事に表現されています。四肢を除いて施された緑釉は土中で「銀化」した部分も多く見られますが、本来は鮮やかな緑色でした。



緑釉鴟鶚尊(りょくゆうしきょうそん)

OWL-SHAPED VESSEL,
Green glazed earthenware

後漢時代・1~ 2世紀 / 海野信義氏寄贈

Eastern Han dynasty, 1st-2nd century

h: 21.3 w: 14.4×15.5 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

鴟鶚とはふくろうのことで、ふくろうの頭部が蓋になった容器です。鴟鶚尊は商周時代の青銅器にも見られ、祭祀用の酒器の一つでした。漢代では緑釉のほかに加彩の作例も知られています。全面に施された緑釉はかなり剥落しています。体躯と頭部は轆轤成形を基本としており、しっかりした足と簡略化された羽が見られ、足と尾羽でうまく安定が図られています。夜目がきくなど暗闇にも強い鴟鶚は墓の中でも心強い存在だったのでしょう。



加彩侍女俑(かさいじじょよう)

FIGURE OF A FEMALE ATTENDANT,
Painted earthenware

北魏時代・6世紀 / 海野信義氏寄贈

Northern Wei dynasty, 6th century

h: 15.0 w: 4.8×5.0 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

墓に副葬される明器のうち人物像については俑(よう)と呼び習わされています。その歴史は春秋戦国時代までさかのぼります。つづく秦の始皇帝陵の「兵馬俑」はよく知られています。軍隊から身の回りの世話をする侍者や奴婢にいたるまで多種多様な俑が見られ、当時の生活ぶりを知る貴重な資料となっています。この侍女俑は北魏洛陽遷都(493-494)後の6世紀前半のもので、小ぶりで笑みをたたえた愛らしいものです。左手を腰上まで上げ、体をやや右に傾け、右手には何かを持って作業をしているようです。何気ない動作の一瞬を見事にとらえています。



加彩持箕侍女俑(かさいじきじじょよう)

FIGURE OF A FEMALE ATTENDANT WITH A WINNOWING BASKET,
Painted earthenware

北魏時代・6世紀 / 海野信義氏寄贈

Northern Wei dynasty, 6th century

h: 15.0 w: 4.8×5.0 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

No.7と同じ北魏洛陽遷都(493-494)後の俑で、一括品と考えられます。大きな箕を両手に持って坐る侍女を表したもので、洛陽地区の北魏墓でしばしば見られます。髪を双髻(そうけい)に結い、袖口の広い上衣を左前に着て、長いスカート(長裙(ちょうくん)をはいて、腰には帯を巻いています。朱などの彩色が一部残っています。型づくりを基本とした成形で、素焼きした後、全体に白化粧を施し下地とした上に彩色が施されていたと考えられます。当時、墓には被葬者である主人のためにこうした日常生活の作業をする様々な侍者を表した俑の一群が副葬されていました。



加彩女楽俑(かさいじょがくよう)

FIGURE OF A FEMALE MUSICIAN,
Painted earthenware

北魏時代・6世紀 / 海野信義氏寄贈

Northern Wei dynasty, 6th century

h: 10.6 w: 6.6×8.0 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

こちらもNo.7、8と同じ北魏洛陽遷都後の俑で、一括品と考えられます。両手を胸前に挙げ坐す双髻(そうけい)の女性です。袖口の広い上衣をに長いスカート(長裙)を着けています。全体に白化粧を施してから、彩色を加えていたようで、彩色はほとんど剥落しています。洛陽地区の北魏墓出土の類例から、本来は楽器を持って演奏をしていた楽人であったと考えられます。当時の墓にはこうした楽人俑がセットで副葬される場合があり、墓の中をにぎやかに演出しています。どんな音楽を奏でていたのでしょうか。ややうつむき加減で穏和な笑みをたたえています。



緑釉加彩女楽俑(りょくゆうかさいじょがくよう)

FIGURE OF A FEMALE MUSICIAN,
Painted earthenware

隋時代・6~ 7世紀 / 海野信義氏寄贈

Sui dynasty, 6-7th century

h: 24.6 w: 7.8×6.0 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

西アジアあるいはインド起源といわれる琵琶を弾く女性の楽人俑です。左手側の海老尾(えびお)と呼ばれる部分を下向きにして演奏する方法は現在とは逆になります。細身の体型でハイウエストのスカート(長裙)を着けたこうした女性のスタイルは隋から初唐にかけて流行しました。全体に白化粧を施してから、スカート部分には緑釉が施されており、ドレープ(襞(ひだ)の美しさを際立たせています。細く繊細な眉や目の描写や頬・唇の朱彩は、俑全体に生気を与えています。赤みを帯びた胎土は都長安(現在の西安)一帯によく見られるもので、本作も西安地区でつくられたものと推測できます。



黄釉加彩侍女俑(おうゆうかさいじじょよう)

FIGURE OF A FEMALE ATTENDANT,
Painted earthenware with yellow glaze

唐時代・7世紀 / 海野信義氏寄贈

Tang dynasty, 7th century

h: 21.2 w: 5.7×6.2 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

白いカオリン質の胎土に低火度鉛釉の淡い黄釉を掛け、その上に彩色を施した黄釉加彩俑は、唐三彩出現以前の初唐期、とくに7世紀の40-60年代に見られます。公主をはじめ高い身分の墓にも見られることから、特別につくられた付加価値の高いものであったと考えられます。産地は不明ですが、洛陽地区の出土例も多いことから、鞏義窯が有力な候補といえます。淡い黄白色の釉色が独特の質感を見せ、頭髪や眉、目などに黒、帯に朱の彩色が施されています。黄釉と加彩の組み合わせによる黄釉加彩俑は、複数の釉の組み合わせによる唐三彩俑が出現する以前の一時期に花開いた技法でした。



黄釉加彩騎馬女俑(おうゆうかさいきばじょよう)

FIGURE OF A FEMALE RIDING A HORSE,
Painted earthenware with yellow glaze

唐時代・7世紀 / 海野信義氏寄贈

Tang dynasty, 7th century

h: 36.4 w: 28.8×10.8 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

これも黄釉に加彩が加えられた初唐期特有の俑です。帷帽(いぼう)と呼ばれる笠に似た帽子をかぶった騎馬姿の女性俑です。左手は手綱を握りしめる形をしています。唐時代、女性の間でも乗馬が流行しました。頭から首にかけては布をまきつけており、帷帽とともに、風砂を避けるためのものでした。すっきりとした目鼻立ち、そして背筋をピンと伸ばし、颯爽と馬を駆る姿が美しく、黄釉加彩俑の優品の一つといえます。類例が陝西省礼泉県の昭陵に陪葬される張士貴墓(657年)と鄭仁泰墓(664年)という二人の大将軍の墓から出土しています。こうした騎馬女俑は貴人の外出(出行)にお供をする侍女であったと考えられます。



黄釉加彩巻髪俑(おうゆうかさいけんぱつよう)

FIGURE OF A FOREIGNER WITH CURLED HAIR,
Painted earthenware with yellow glaze

唐時代・7世紀 / 海野信義氏寄贈

Tang dynasty, 7th century

h: 29.0 w: 9.9×9.5 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

巻髪で眉が太く目が大きい顔は東南アジア人ともいわれています。当時唐の都長安には東西の人やモノがいきかう、世界有数の国際都市でした。当時の俑にもソグド人やアラビア人など西方からのいわゆる胡人やアフリカや東南アジアなどの黒人を表したものが見られます。赤と白のストライプの半ズボンをはき、肩には斜めに帯をつけ、裸足で足は太く、当時貴族の邸宅にいた外国から売られてきた奴隷でしょうか。右手を高く挙げ何か曲芸をしているともいわれています。陝西省礼泉県の鄭仁泰墓(664年)から類例が出土しています。異国情緒と躍動感あふれる造形は唐の国際性を見事に反映しています。



三彩侍女俑(さんさいじじょよう)

FIGURE OF A FEMALE ATTENDANT,
Earthenware with three-color glaze

唐時代・8世紀 / 海野信義氏寄贈

Tang dynasty, 8th century

h: 26.3 w: 6.3×5.4 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

唐三彩は褐釉や緑釉、白釉(透明釉)など複数の低火度鉛釉が掛け合わされた器物や俑に対する総称です。色釉の組み合わせや白斑などを効果的に用いられた華やかさが特徴です。唐三彩は女帝・則天武后の治世(690-705)に都洛陽を中心に全国的に流行し、鞏義窯はその代表的な生産地でした。長いショール(披帛(ひはく))をかけたこのタイプの侍女俑は8世紀初頭の洛陽地区でしばしば出土しています。カオリン質の白い胎土などから、この俑も鞏義窯の製品と考えられます。顔には三彩釉が施されていないのは、繊細な表情の描写にはやはり加彩が適していたからでしょう。



三彩胡人俑(さんさいこじんよう)

FIGURE OF A FOREIGNER,
Earthenware with three-color glaze

唐時代・7世紀 / 海野信義氏寄贈

Tang dynasty, 7th century

h: 30.8 w: 8.7×6.9 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

胡人とは中国の北方や西方の異民族の人々を指す総称です。唐時代の胡人俑には、当時シルクロードを通じて活発な商業活動に従事した中央アジアのイラン系のソグド人が多く見られます。この胡人俑も彫りの深い顔で、鼻が高く、顎鬚(あごひげ)や口髭をたくわえた特徴からソグド人と考えられます。右手を胸前で握り、左手は腰のベルトをつかんでいるようで、馬や駱駝の馭者(ぎょしゃ)かもしれません。都長安や洛陽をはじめ唐の領域に定住した胡人も多くいたようで、異国情緒あふれる胡人の文化は唐でも流行しました。



三彩鎮墓獣(さんさいちんぼじゅう)

FIGURE OF A TOMB GUARDIAN,
Earthenware with three-color glaze

唐時代・7世紀 / 海野信義氏寄贈

Tang dynasty, 7th century

h: 31.2 w: 11.4×9.7 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

鎮墓獣(ちんぼじゅう)とは墓室の入口付近に置かれ墓を守護する役割をもった一種の神獣です。5世紀頃から鎮墓獣は人面獣身形のものと獣面獣身形のものが一対で墓に置かれるようになります。これは人面獣身形のもので、いかめしいその顔つきや大きな耳、長い角は墓のいかにも番人にふさわしい迫力をそなえています。唐時代の鎮墓獣はこのようにほとんどが岩座上に蹲踞(そんきょ)の形で坐っています。両肩には翼が生え、足は馬のような蹄(ひづめ)を持っています。大きな耳の表現など洛陽地区の出土例に多いことから、洛陽地区でつくられたものと考えられます。



三彩駱駝(さんさいらくだ)

FIGURE OF A CAMEL,
Earthenware with three-color glaze

唐時代・8世紀 / 海野信義氏寄贈

Tang dynasty, 8th century

h: 56.0 w: 40.3×13.4 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

首をもたげて嘶(いなな)くフタコブラクダの一瞬を捉えた見事な造形見せています。「砂漠の船」ともいわれる駱駝は、シルクロードの交易には運搬手段をはじめ必要不可欠なものでした。三彩の駱駝には荷物を運んだり、背に楽隊を載せたりしたものもあり、サイズも高さ90㎝近い大型のものも知られています。また、駱駝とともに駱駝を牽(ひ)く、胡人俑もセットとなる場合が多く、墓の中にはあたかも当時の生活の一場面が再現されているかのようです。駱駝を含めた動物模型の明器も基本的には型でつくられており、西安市内で発見された窯址からはパーツごとの型も見つかっています。



三彩天王俑(さんさいてんのうよう)

FIGURE OF A HEAVENLY KING,
Earthenware with three-color glaze

唐時代・8世紀 / 海野信義氏寄贈

Tang dynasty, 8th century

h: 89.2 w: 35.5×13.6 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

朱雀冠(すざくかん)をかぶり、甲冑(かっちゅう)を身にまとい、左手を腰に当て右手は上に挙げ槍を持つようなその姿は、仏教の四天王(とくに増長天)や十二神将を彷彿(ほうふつ)とさせます。そのため、こうした武人俑は天王俑あるいは神将俑と呼ばれています。天王俑は7世紀後半に登場し、墓室の入口付近に鎮墓獣などとともに置かれました。口髭(くちひげ)をたくわえたいかめしい表情と豪華な甲冑は、墓を守るのにふさわしい威厳をそなえています。岩座上に立ち、牛を踏みつけています。河南省偃師(えんし)市の張思忠墓(703年)からほぼ同サイズの類例が出土しており、本作も洛陽地区でつくられたものと考えられます。



加彩天王俑(かさいてんのうよう)

FIGURE OF A HEAVENLY KING,
Painted earthenware

唐時代・8世紀 / 海野信義氏寄贈

Tang dynasty, 8th century

h: 67.5 w: 26.1×13.4 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

No.18と同じ天王俑ですが、年代はやや下る天宝年間(742-756年)頃の加彩の作例です。隆盛を見た三彩俑も則天武后治世(690-705)の終焉(しゅうえん)とともに開元(711-41)年間の後半にはほとんど見られなくなります。天宝年間以降の天王俑は顔が大きくふくよかで、体つきも柔らかでより躍動感あふれる造形を見せています。高さ5m近くのものも知られています。天王俑の足元には仰向けに手足を挙げて踏みつけられている邪鬼が岩座上に見られ、岩座正面には空気抜き用の穴があけられています。こうした天王俑はパーツごとの型を用いて成形されたことが、西安市内の窯の出土例からうかがえます。



加彩侍女俑(かさいじじょよう)

FIGURE OF A FEMALE ATTENDANT,
Painted earthenware

唐時代・8世紀 / 海野信義氏寄贈

Tang dynasty, 8th century

h: 33.6 w: 9.8×7.7 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

唐時代には様々な趣向をこらした髪型が流行しました。左右の鬢髪(びんぱつ)をやや前に張り出し、頭上に双髻(そうけい)を結っています。切れ長の目と小さくしまった口元、そしてふっくらとした頬が印象的で、盛唐期の女性の美しさをよく表しています。男性の服装を着ている、いわゆる「男装の麗人」で、袖の中の両手は胸前で組む拱手(きょうしゅ)をしています。唐時代、婦人たちの間では男装や騎馬が流行しました。こうした俑は基本的には型でつくられ、頭と体は別々につくられてから接合されています。全体に白化粧が施された上に、本来は華やかな彩色が見られましたがほとんど剥落してしまっています。



加彩侍女俑(かさいじじょよう)

FIGURE OF A FEMALE ATTENDANT,
Painted earthenware

唐時代・8世紀 / 海野信義氏寄贈

Tang dynasty, 8th century

h: 45.2 w: 12.4×12.2 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

比較的大型の女俑です。盛唐以降、俑や明器の副葬の数量や大きさについて身分により細かな規定が何度か設けられましたが、実際の出土状況を見るとあまり守られていなかったことが分かります。顔を上げ、左手を胸前で袖の中にしまい、右手を前に出すしぐさには優雅さが感じられます。小鳥を手に持つ類例も知られています。両頬やショール(披帛(ひはく)の部分には彩色も残っており、一部花柄模様も確認できます。彩色の状態のせいか表情にはやや物悲しさも感じられます。ゆったりとした長いスカート(長裙)からは先端の反り返った靴がのぞいており、これも当時の女性たちの流行のファッション・アイテムの一つでした。



加彩牛車(かさいぎゅうしゃ)

FIGURE OF A FEMALE ATTENDANT,
Painted earthenware

唐時代・8世紀 / 海野信義氏寄贈

Tang dynasty, 8th century

h: 28.1 w: 46.0×22.2 / Gift of Mr. Umino Nobuyoshi

牛車の模型明器です。アーチ型で湾曲した車蓋(ほろ)のついた長方形の車輿(しゃよ)の二輪車を、二本の木製の轅(ながえ)(後補)で牛が牽(ひいています。牛の生き生きとした造形のみならず、車輿部分も精巧に表現されており、当時の牛車の実態をうかがうことができます。牛車は貴人の外出(出行)時の乗り物として古くから使われていました。そのため、墓に副葬される明器でも必需品の一つであり、唐時代には緑釉や三彩のほか、青銅製のものも見られます。6世紀頃の墓の壁画には男性の被葬者が馬に乗り、その妻が牛車に乗り出行する場面が描かれた例もあることから、これも女性の乗り物であったかもしれません。