大阪市立東洋陶磁美術館

日本における宋磁の受容

今回の宋磁展には、宋時代のやきものの中でも、本当に良いものがたくさん揃っています。イギリスの大英博物館、フランスのギメ美術館、中国の上海博物館、あるいは国内の多くの御所蔵者に大変ご協力をいただきました。従来ではなかなか見られないようなものを出していただきまして、これはほとんど空前の展示といってもよろしいのではないかと思います。また今度の展覧会には、日本での開催ということで日本的な特色がよく出たような気がします。皆さんご存知のとおり、日本には宋時代のやきものが大変大事にされて数多く伝わっています。日本でなければ、そうしたものが揃って並ぶということは、めったにありません。今日は、そうした今回の展覧会の特色である、宋磁の日本的な受け止め方というようなことについて、しばらくお話を申し上げたいと存じます。

宋磁という言葉はそう古くからいわれていた言葉ではなく、おそらくここ数十年来、つまり戦前から言われてきたことです。1944年(昭和19年)に小山冨士夫先生が、『宋磁』という本を出しておられます。これは、恩師である奥田誠一先生の還暦のお祝いに献呈されたものですが、1944年という戦争末期の時期によくあんな立派な本が出たものだと驚いております。この時期は、不思議なことに陶磁器関係の重要な本が、何冊も出ています。大阪の小林太市郎先生が、ダントルコールの『中国陶瓷見聞録』という有名な本の翻訳を出されたのも、この時期です。また、小山先生は昭和18年にそれまでの研究成果をまとめられた『支那青磁史稿』という本を出されています。それから、久志卓真さんという方が、『支那明初陶磁図鑑』という明時代の初め頃の陶磁器についての本を出版しました。小山先生の『宋磁』という本の中には、「宋代陶磁概説」という章がありまして、宋時代のやきもののことについてかなり詳しく述べておられます。写真も戦時中としては第一級のもので、日本にある宋時代の名品をよく調べて図版にしてあります。中国陶磁の展覧会をする場合には必ず参考にする本であり、今回もこの『宋磁』に出ておりましたものがずいぶん入っております。

『宋磁』の出版は、小山先生が宋時代のやきものについて研究された集大成といえますが、もちろん宋磁の研究をされたのは小山先生お一人ではありません。大正の末から昭和の初めにかけては、宋時代のやきものの研究が一つのブームとなった時期といえます。1920年代・30年代頃には、多くの研究者やコレクターの方々が、宋時代のやきものの様式、生産地、編年など様々なことについて研究されました。奥田誠一先生や、京都の中尾万三さん、浄土真宗本願寺派22世法主の大谷光瑞さん、大連におられた小森忍さん、尾崎洵盛先生、そういった方々が1920年代から30年代にかけて、宋時代のやきものについて熱心に研究をされました。また、研究者の他にも熱心に宋時代の陶磁器を収集するコレクターの方々もたくさんいらっしゃいました。東京国立博物館所蔵の有名な横河コレクションの横河民輔さん。静嘉堂文庫美術館をつくられた岩崎小弥太さん。細川護立さん。関西の嘉納治兵衛さんや藤田伝三郎さんなどの大コレクターが、宋時代のやきものについて関心をもって収集されました。しかし、それ以前は宋時代のやきものを取り上げるような動きというのは、全くなかったようです。陶磁器研究の主流は日本陶磁であり、中国陶磁については、青磁や天目などのお茶関係で取り上げるようなものについていくらかの研究がされていただけでした。

このような宋時代のやきもののブームは、イギリスでも同様にありました。イギリスは、中国陶磁研究の一つの中心地でございます。1921年に有名なホブソンやユーモルフォプロス、パーシヴァル・デイヴィット卿、ヘザリントン、そしてラファエルといったような方々が中心となって、オリエンタル・セラミック・ソサイエティー、東洋陶磁協会を創設しました。このイギリスの東洋陶磁協会の人々も、1920年代から30年代にかけての時期に特に熱心に中国陶磁の研究をされました。1935年には、ロンドンでイギリス国王エドワード8世の戴冠記念行事として中国芸術国際展覧会が行われました。この国際展覧会の準備のために、イギリスの東洋陶磁協会のメンバーが来日し、日本のコレクションを展覧会に出すことで日英の研究者の交流をはかったりもしています。

宋時代のやきもののブームは、イギリスにしても、日本にしても、1920年代ごろから始まりましたが、当時日本では宋磁という言葉はまだ存在せず、宋窯という言い方がされていました。そのうち、陶器と磁器とを合わせた概念である「瓷」という字を用いて、「宋瓷」と呼ばれるようになりました。このブームはなんといっても有名な鉅鹿の発掘が行われたことと関係があります。1920年、河北省の鉅鹿という町が水不足となり、井戸を掘ったところ、土中からたくさんのものが出てきました。そのうちの陶磁器(磁州窯タイプのものが多かったのですが、)が市場に流出すると、これが大変なブームになったのです。碑文によると、この町は北宋時代末の大観2年(1108)に付近を流れる?河が氾濫して、町全体が泥の底に埋まってしまったということでした。大観2年といえば宋磁の一番盛んな頃で、そうした鉅鹿出土の宋時代のやきものがたくさん市場に出てきたために、それがブームのきっかけになったと考えられるのです。鉅鹿以外にも近辺にいくつかそういった性格の遺跡があったらしく、例えば清河鎮からも、宋の陶磁器が出土しています。

また、鉅鹿の発見より少し前に、日本に高麗古墳出土品というものが入ってまいります。19世紀の終わり頃に開城付近で高麗時代の古墳の盗掘が盛んに行われ、高麗青磁の名品がたくさん出土しました。それがきっかけになって高麗青磁の研究が非常に盛んになり、同時に高麗古墳出土の宋磁というものも日本にたくさん入ってきたようです。今回の展覧会でも、特に青白磁の中に、高麗古墳出土といわれているものがいくつかあります。

また、少し後になりますが、昭和初年、オランダ統治下にあったインドネシアでの出土品も、やはり日本に入っています。出土品以外に伝世品もあると思うのですが、有名なものとしてはジャカルタのプサット博物館に、フリネス・コレクションというオランダの銀行家のコレクションがあり、宋時代のやきもののおもしろいものがたくさん並んでおります。また、大英博物館の有名な鳳首瓶(Fig.1)もインドネシアの出土品ではないだろうかといわれております。それから、北ベトナムのタインホァ州でも、ベトナムの陶磁器と一緒に、宋・元時代の陶磁器が出土しており、1920年代の前半頃から日本、フランス、あるいはベルギーにも運ばれています。

このように、宋時代のやきものに対する関心が大変高まったのがきっかけになって、中国陶磁の研究全体に進展が出てきましたし、そうした中で、日本にある宋時代のやきものの再認識が出てくるわけです。特に比較的まとまって取り上げられたのは、青磁と天目茶碗です。このように宋磁の室町時代以来の日本における尊重のされ方が、いろいろと確かめられるようになりました。それについては、適翠美術館の館長をしておられた満岡忠成先生が、やはり戦争末期に出された『日本人と陶器』という本の中で具体的に述べておられます。その本では、唐物と呼ばれる中国のやきものの類がどのように扱われてきたかというようなことが問題になっております。また同じ問題点について京都国立博物館におられた藤岡了一先生も、いくつかの論文を書いておられます。日本の文化というのは、中国の進んだ文化を受け入れながら発達してきたわけで、奈良時代以前からずっとそれが続いて、宋の時代にあたる平安時代末から鎌倉時代、あるいは南北朝時代の初め頃にかけての時期には、たくさんの中国陶磁器が日本に入ってまいりました。この類のやきものの再検討は、戦後三上次男先生が、日本出土の中国陶磁器を含めた貿易陶磁の研究を提唱され、現在も大変熱心に研究が進められています。

中国で建盞と呼ばれている天目茶碗は、宋代の早い時期から大事にされていたようです。日本から勉強に行った禅宗の僧が、やがて俗称のようなかたちで天目という名前を使うようになったと考えられています。そして次第に天目茶碗の中から良いものを選び出すという作業が進むわけです。記録に出ている名称を並べてみますと、天目茶碗の釉調によって、曜変天目、油滴天目(Fig.2)、灰被天目というように分化をしてまいります。だいたい南北朝時代から室町時代にかけて等級付けが行われるようになり、ものの見方の基準がだんだん定まっていきます。そういったことは将軍家を中心とした同朋衆の間で、『君台観左右帳記』のような形で伝えられていくわけです。結局、宋時代のやきものがいかにすぐれて感動的なものであるかということを、早い時期から見ぬく人たちがいて、それを基準にしたのだと思います。

青磁についても同様のことがいえます。南北朝時代から室町時代にかけて、良いものを選び出す作業が将軍家を中心にして行われたと考えられます。当初は、例えば花を活けてその美しさを競い合うという遊びだったものから、だんだん花生の評価が決まっていったのでありましょう。「万声」(Fig.3)に代表される鳳凰耳の花生のような、いわゆる砧形の花生を中心として、等級付けのようなことも行われていたようです。

それとは別に官窯というものも、室町時代から記録に出てまいります。明時代末の『天工開物』という本には、「日本人は官窯(古砕器)を大変に好む。官窯であれば、いくら大金を出しても手に入れようとする。」ということが書かれており、当時の日本人が、官窯のやきものを特別なものとして認識していたことがわかります。官窯の問題というのは大変難しく、研究はなかなか進行しなかったのですが、近年になって例えば、汝窯と呼ばれるものの窯跡がわかり、汝窯(Fig.4)の研究が進んでいます。また、南宋官窯については、戦前に大谷光瑞さん、中尾万三さん、そして米内山庸夫さんなどが調査をされています。南宋官窯の中でも郊壇窯と呼ばれる窯については、戦後に中国の研究者によって窯跡の調査が行われています。一方、修内司窯という窯は長く存在が不明であったのですが、今回初めてその窯跡が確認されたわけでございます。官窯青磁について、鎌倉時代の日本人がどれほど知っていたかというと、これはなかなか難しい問題です。おそらくその少し後の室町時代になってから、中国における官窯青磁の尊重の仕方を汲み取って、五山の僧侶などが取り入れていったのだと思います。

砧青磁・天竜寺青磁というのもそれほど古い言い方ではなく、江戸時代にごく一部の人たちの間で行われていたことだと思います。ものの見方の基準というようなものが室町時代に作られ、それの最高のものが官窯ということが次第に確立して、それが基準になっていろいろ判断するということだったかと思います。

宋代の白磁ももちろん日本に入ってきております。静嘉堂文庫美術館所蔵の前田家伝来の定窯白磁の鉢や、他にも定窯白磁、青白磁などで伝世をしているものがかなりあります。記録の上には残らずに社寺に伝わったものなどもありますし、最近では博多の発掘現場で、宋時代の白磁が大量に見つかっています。このような発掘から、どのくらいの程度のものがどれほど日本に入ってきたのかということが、だんだんわかってきました。また例えば「鳥の子」や「〓州」という箱書きのあるものは、おそらく江戸時代初期かそれ以前の宋白磁の捉え方を示していると思います。室町時代の記録には染付も出てまいりますが、それよりも無文の白磁の方が格が高かったのではないかと思われる節があり、やはり宋時代の定窯風のものが特別のものとして扱われていたようです。

このような、宋時代のやきものに対する憧憬から一つの基準を作りあげていったのがお茶人たちであり、特別に出来の良いものを将軍家や大名家が宝物として大事に伝えて、伝世品というものを作り出してきたのです。このように、日本では宋時代のやきものを非常に大事にしてきました。これは例えば青磁の陳列をご覧になるとおわかりのように、出土品などと比べて非常に肌がきれいで傷んでおりません。出来上ったときの美しさが、できるだけそのままに伝えられてきたという感じがございます。そういう点で申しますと、日本で宋磁展をやって数々の伝世品が一堂に並び、大切に伝えられてきたものが現在もそのままの形で見られるということは、たいへん貴重なことといえます。今度の宋磁展は、多くの方々のご援助によって最高級のものを揃えることが出来たといってよろしいと思います。たくさんの方が、宋時代のやきものの良さというものを味わって下さって、陶磁器に対する関心が一層高まるのは、まことに望ましいことであります。私が今日お話をしたいと思ったのは、以上のようなことでございます。ご清聴ありがとうございました。

日時:平成11年4月25日(日)
会場:リサイタルホール
講師:出光美術館理事 長谷部楽爾