大阪市立東洋陶磁美術館

唐代越州窯青磁の年代観

最初に細かい話に入る前に、皆さんが御存じの越州窯全体のことについてごく簡単に申し上げてみたいと思います。越州窯というのは中国の江南地域、揚子江から南の地域のかなり広い範囲で主として漢代から三国、南北朝時代に作り続けられているやきものです。中国の研究者の中には春秋戦国時代まで越州窯青磁の起源を遡らせて考えている方がかなり多いと思いますけれども、墓などに目立つ程度に副葬されるのはやはり後漢以降と考えてよいと思います。わが国の一つの分類の基準として、そうした漢代から隋以前の越州窯青磁については、古越というような言い方をして分けています。本日は唐代の中期(8世紀の中頃)から、宋の中期(11世紀の中頃)ぐらいの期間の越州窯青磁、とくにこの300年間の越州窯青磁のうちで、碗という器形について考えてみたいと思います。

この時期の越州窯青磁がどこで作られていたかと言いますと、まず浙江省と考えます。そしてその浙江省の中で今日中国の研究者が越州窯と言っているのは、比較的狭い範囲の杭州湾に面するようなところを言っています。ところが福建省に近付いた温州にオウ江という川が流れています。この地域全体で作られる越州窯に似ているものをオウ窯と中国の研究者は言っています。同じように、浙江省の中央部に金華という都市があり、ここを中心とした地域で作られているやきものをド州窯と言います。日本の研究者はこれら全部含めて越州窯と言っています。ですから、広い意味の越州窯と言えばこの三つを含み、この展覧会の越州窯は広義の越州窯です。
オウ窯とド州窯はあまり調査が行われておりません。この二つについて非常に知識が乏しいので私どもにとって区別がつきにくいのです。
越州窯の中で、一番優れた青磁をやいているのは、上林湖です。この湖の周辺に相当数の生産窯がありまして、質的に一番高いと思います。

 いよいよ本題に入ります。皆さんの中で越州窯青磁なかの碗というのは、とるにたらない作品であるとお考えになっている方が多いと思いますし、私も作品として見た場合に碗・皿というのは美術品的な高い評価を与え難いと思います。しかし、窯跡を調査しますと、越州窯そのもので数えた記録はないんですけれども、約95%は碗・皿です。当時の生産なり年代を考える時に、やはり碗・皿を中心に考えざるをえません。碗・皿で年代をとらえていくのが考古学的な方法と美術史的な方法の違いの一つです。
碗・皿のなかに、底部の削り方に特徴のあるもの、つまり高台の幅が広い碗が越州窯青磁にあります。これをわが国では「蛇の目高台」と言っています。中国ではこれを全く同じ意味で「璧底」と言っています。
蛇の目高台というのは、だいたいにおいて唐代の後半、9世紀代ぐらいに現われて五代、10世紀の中頃ぐらいまで続くだろうというのが日本も中国も含めまして多くの意見です。私が考えておりますのはこれをもうちょっと厳密に言えないかということです。
蛇の目高台というのは越州窯青磁だけではなくて、唐代の白磁の中で最も有名なケイ州窯白磁においても蛇の目高台はポピュラーな形式として登場してきます。それから南に下がりまして長沙窯にもあります。このいずれにおいても蛇の目高台はほぼ同じ頃に作っている形式です。

 まず第一にいつごろから蛇の目高台という形式がでてくるのかということを見ていただきます。図Aの1から3というのが、広東省の墓の出土品で 697年という銘をもった青磁でして、2を除きまして確かに底は削ってあります。しかし、これはどうも蛇の目高台とは言わないほうがいいのではないかと思います。古いのは図A−4の湖南省長沙の近くから出てきた763年という紀年銘を持つ白磁ですが、これは間違いなく蛇の目高台といって宜しいと思います。ただこれはどこの製品かというのはよくわかっておらず、報告書では湖南省の白磁だと言っておりますけれども、正確ではありません。ところがこれと同じようなものが大宰府史跡から出てまいりまして(図A−5)、これも日本の年代観でいいますと8世紀後半ぐらいの層位から出てきています。それから図A−9は間違いなく越州窯です。これは江蘇省の出土品で、璧底になっています。9の出土墓には墓誌があるのですけれども残念ながら表面が相当削られ年号の部分がわかりませんが、内容の中で安史の乱ということが書いてあります。安史の乱が終ったのが763年ですから、8世紀の後半と言えると思います。越州窯として今一番古く遡る蛇の目高台はこの9ではないかと思います。 それから、794年に浙江省の諸曁の墓から出土した青磁は間違いなく蛇の目高台の碗です。8世紀の末になりますと蛇の目高台が作られ始めているといって宜しいと思います。ただ誤解をされて困るのは、この唐代から北宋の時期において、全ての碗が蛇の目高台ということではありません。主流はやはり平底です。蛇の目高台というのは特別な技術ではなく、平底の真中を削るという改良形だと考えています。
なぜある時期に蛇の目高台が出てくるのかというと、やはり焼成技術上の問題だと思います。底の部分というのは厚めに作るのですが、胎の部分との厚さが違いますと乾燥の速度が違ってきて、それをそのまま焼きますと、ひび割れやすくなります。ですから厚い底の割れやすい真中の部分を削るということです。

第2番目には蛇の目高台が量的にはいつごろが最も多くなるかということです。結論から申しますと9世紀の前半代でして、越州窯青磁では平底よりも蛇の目高台の方が多くなると思います。
図Aの18から25の一群というのは、8世紀は終わりから、9世紀の前半のものです。この18のような蛇の目高台は非常に多く見られます。
それからこの図A−26はケイ州窯の白磁で、陝西省の819年という銘を持っている墓の出土品です。
図A−27は越州窯の青磁です。江蘇省の鎮江市の墓から出てきました。紀年銘の墓誌はもっておりませんが、周囲の墓は9世紀初めから中頃ぐらいの墓ですので、まず9世紀前半の墓であると言って宜しいかと思います。
9世紀前半代ではそのほか越州窯でも、ケイ州窯の白磁でも非常に大量に蛇の目高台の碗を作っています。
この話の中で一つの欠陥がありまして、いままで挙げた資料は墓の出土品でして、墓誌があるので年代が非常にはっきりするという意味でいいわけですが、しかし本当に9世紀前半に圧倒的に蛇の目高台が全体の碗の中で占めていたのだという証拠を示せるかというと、示せないわけです。量的な問題を正確に把握したいという気がします。それは窯跡を調査すれば可能なわけです。しかし、越州窯青磁研究の最大のウィークポイントは窯跡の調査があまり進んでいないということです。とくに最も中心となるべき上林湖窯の調査が不十分だと思います。

さて第3番目に蛇の目高台はいつごろ消えていくかということですが、越州窯だけをみますと850年代に三つ例がありますが、860年以降蛇の目高台というのは全く姿を消してしまいます。蛇の目高台から輪高台に変わるのです。その証拠として874年に西安の法門寺の塔の地下室から越州窯青磁が14 点、ケイ州窯の白磁が2点が出てきました。越州窯青磁は細首の面取してある瓶があります。碗が7点。大きい皿は6点。皿は平底ですが、碗と瓶は輪高台です。この時点で蛇の目高台は1点もなく、輪高台に変わってきているということです。
900年代に入りますと、銭氏の墓が杭州周辺にありますが、その中に大変質のいい越州窯青磁があります。そこからの出土品は、全て輪高台か平底ですが、蛇の目高台はありません。899年に亡くなって、900年に埋葬された銭寛の墓から出てくる白磁は、全て輪高台です。900年の銭寛墓から始まりまして、960年ぐらいまでずっと銭氏の墓があり、そこから大量に越州窯青磁が出てきますが、それは全て輪高台に変わっていて、一例も蛇の目高台はありません。つまり800年代の後半、おそらく850年から875年の間ぐらいに、蛇の目高台は輪高台に変化したと思います。これは越州窯に限られた現象ではなくて、ケイ州窯の白磁においても、ほぼ同じ頃から輪高台に変わっているということが言えます。

次に日本からの出土品について述べます。図Bの2番から10番というのは福岡の徳永遺跡の出土品です。ここからは全部で70片ほどの越州窯青磁が出ており、9世紀の中庸から後半ぐらいという時期を示していますが、そのうち輪高台はわずか2片で、98%は蛇の目高台です。図B−19は、平城京の東三坊大路側溝から824年と書いた木簡と一緒に出てきました。ただし年号にはいくつかの解釈が必要でして、どうしても日本の中の年号と一緒に出てくると少しずれています。具体的な例で言いますと、大宰府で927年という年号の木簡が出てきました。私の説で言いますと、もう蛇の目高台はないという時代ですが、越州窯青磁30片中のうち28片は輪高台であり、2片だけ蛇の目高台が混ざっています。927年というのはそれを使って捨てた年号で、輸入されてからそれを廃棄するまでに一定の時間があると考えてよいと思います。

最後に、日本と朝鮮の蛇の目高台について触れます。日本の緑釉陶器のうちで京都の洛北、洛西、篠の古窯では、9世紀の初めごろから後半ぐらいの間だけ蛇の目高台が出てきます。その後10世紀に入りますと、全て輪高台に変わっていきます。
 消費地としての平安京においては810年から870年ぐらいの時期に緑釉陶器の蛇の目高台は現われるという研究があります。こうしますと、先程私が説明しました中国で作られた年代と一致しています。わが国は中国で生産されたものがストレートに入ってきて、それをたちまちのうちに模倣をする。その当時の日本人にとってこの緑色、これはまさに越州窯の秘色と同じだと考えたかもしれません。非常に同時代性の模倣だといえます。高麗青磁の中にも蛇の目高台があります。高麗青磁の中で最初の形式が蛇の目高台だろうと韓国、日本の学者が共通して言ってます。問題はそれがいつごろなのかということです。韓国の学者の中で大きく二つの説に別かれておりまして、前々からあるのは10世紀の後半から中国のやきものの影響を受けて作り始めたという説と、9世紀代には始まっていたという説があります。私は後者だと思います。やきものの技術で朝鮮半島よりも遅れている日本が、中国と同時代に真似ているのに、鉛釉陶器でない本格的な青磁を作っている朝鮮半島における模倣が、日本より後出とする説明は難しいと思います。
おわりに、8世紀の後半から9世紀の中頃に東アジアに共通した器形、すなわち蛇の目高台という形態があったということ、この意味に私は興味をもっています。

図A
[図A]蛇の目高台
1〜3.広東子游の子夫妻墓(697)
4.湖南劉俊墓(763)
5.大宰府史跡SE1340
6〜8.広東張九齢墓(741)
9.江蘇儀征鄧夫妻墓 (安史の乱後)
10〜12.湖南唐墓M164(804)
13〜16.安ビ伍氏墓(842)
17.河南鄭紹方墓(841)
18〜25.寧波市碼頭 (9世紀後半)
26.陝西李文貞墓(819)
27.江蘇鎮江M19
28. 江蘇王叔寧墓(848) (縮尺約1/3)

図B
[図B]日本出土青磁・白磁
1.京都市・西寺跡
2〜10.徳永遺跡 II 区包含屑(6.福岡県笠寺採集)
11.福岡市・下山門遺跡H4
12.大宰府史跡SD320最下屑
13・14.同下屑
15.大宰府史跡SK1800
16・17.平安京右京3条3坊3町SX07
18.同2条3坊15町SD14
19・21.平城京東3坊大路東側溝
20.平城宮4AA1(32次)
22.京都市広隆寺
23.河北省易県・孫少矩墓 (864年卒)
24・26.大宰府史跡第70次調査獨茶色土屑
25.胆沢城第43次調査3a屑
27.北九州市・寺田遺跡 1〜3・13・23・ 24・25.白磁、他は青磁

プロフィール

亀井明徳 氏

昭和44年九州大学文学部文学研究科修士課程終了。
福岡県教育委員会文化課、九州歴史資料館を経て、現在専修大学文学部教授。主な著書に『九州の中国陶磁』(西日本新聞社)、『日本貿易陶磁史の研究』(同朋舎出版)、『アジアのなかの日本史』〔共著〕(東京大学出版会)など。
日時:平成6年3月5日(土) 午後1時半〜3時半
会場:中之島中央公会堂・3階中集会室
講師:専修大学教授 亀井明徳氏