友の会通信

友の会 講演会
特別講演会要旨
『韓国における陶磁研究の現況』

この講演会は、東洋陶磁学会の招聘に応じて来日された鄭良謨先生に特に依頼し、東洋陶磁学会と、当友の会共催で開催されたものです。先生の御好意と東洋陶磁学会のご好意に感謝の意を表します。

今日は、二つの演題について私の知るところをお話したい。まず『新羅末高麗初の青磁について』、次には『全羅南道における陶窯址調査の現況について』である。

高麗青磁の発生については、戦前の日本の学者は、10世紀末に原始的青磁が発生し、11世紀初から発展を遂げ、12世紀前半に最盛期を迎え、12 世紀中葉には象嵌青磁が現われたと考えた。その根拠は、伊東槇雄氏旧蔵(現梨花女子大蔵)の「淳化四年」(993)銘を伴う青磁壺である。銘文によるとこの壺は高麗太祖の祭祀を行う為の祭器で、青磁とも白磁ともいえず、良質の青磁とはかなり質を異にするところから原始青磁と名づけられた。この壺の制作が 993年であるところから、良質の青磁はこれ以後の11世紀初頃から作られだしたと、推論したのである。

戦後、新しい資料に基づいてさまざまな意見が発表された。例えば、東大名誉教授・三上次男先生は、統一新羅の後期、後百済が五代の国々と密接な関係をもつ中で、越州窯の青磁を輸入し、かつ青磁を作り出したのではないかという意見を出された。又、曽て韓国に留学した吉岡完祐氏や東博の長谷部楽爾先生などは、9世紀末から10世紀初に青磁は作られたのではないかと発表された。

中国、馮先銘先生は、越州青磁に関する論文で、8世紀中葉から10世紀前半までの蛇の目高台の碗が上林湖付近の窯で生産されていたと発表された。越州窯は越国が978年宋に降服するまで栄えた窯である。

韓国で蛇の目高台の碗を焼造した窯は、ソウル近郊の元興里、京畿道龍仁、全羅道高敞、鎮安、康津、海南等西海岸に集中している。蛇の目高台の編年については、中国で10世紀後半になくなった蛇の目高台をそれ以後に韓国で作られたと考えるのは、越州との密接な関係を考えると不自然で、遅くとも10世紀中頃には同じものを作っていたと考えるのが妥当だろう。当時の歴史的事情をお話しよう。高麗青磁の代表的窯址・康津一帯には、蛇の目高台を作った窯址が沢山あるが、この康津の南に海南という街があり、そのすぐ前方に莞島という大きな島がある。この島で、820年頃から846年にかけて新羅人の張保皐という将軍が、ここを基地に東北・東南アジアとの貿易に従事し、一大勢力を占めていた。中国では、中唐に当り、越州窯は栄え、越器は大量に海外へ輸出されていた。韓国、日本にある越器は、この張将軍が関与していたと思う。この時期韓国ではどのようなものが作られていたかというと、1200度以上で焼いた須恵器から、灰釉、鉛釉等が作られていた。従って、8世紀から9世紀の統一新羅では、土器から灰釉、灰釉から青磁へ発展する段階の、青磁一歩手前にきていたと考えられる。その情況下で、越器の輸入が青磁への呼び水となり青磁が発生した想像される。

次に慶州の雁鴨池遺跡についてお話しよう。この池は、新羅統一後の674年に臨海殿の庭園の人工池として作られた。1974年から1976年にかけて発掘調査が行われた。建築材料、金銅仏、磚(678年銘を伴うものあり)等多数の遺物に混じって、約1万点に近い土器が出土した。新羅滅亡後、ずい分後の遺物も含まれているが、池の底からさらに2メートル余りの泥層から、新羅の船、唐の越州の蛇の目高台の碗、同時に高麗の蛇の目高台と青磁碗と思われるものが出土した。これら遺物は、明らかに11世紀から12世紀のものではなく、9世紀末から10世紀初めのものと思う。従って、高麗前の新羅末には、既に青磁は作られていたと私は確信している。

次に『全羅南道における陶窯址調査の現況について』お話しよう。昨年末から今年春にかけて、慶尚南道の窯址で表面採集の調査を行なった。窯址は5郡17ヶ村にわたり、合計約60の窯址について概略を報告したい。

日本にはお茶の伝統があるが、韓国でも高麗には抹茶、煎茶の風習があり盛行したが、朝鮮王朝になくなり、一部の学者や僧侶などの間に残るだけになった。従って、日本における茶碗に対しての美感は、韓国のそれとは全く違い、私の目では近づくことが困難である。例えば井戸茶碗の窯が何処のあるのか問われても、また茶碗を見ても判らないことが多い。既に、何百ヶ処の窯を調査してきた中に井戸があったかも知れない。朝鮮王朝の初期は、青磁から白磁に大変換する時期である。高麗青磁を焼いた窯は、そのまますぐに白磁を作るというわけにはいかなかった。この過渡期に粉青沙器が作られている。粉青沙器は青磁でもない。白磁でもない独特の焼きものである。

今度、調査した窯址を分類すると、15世紀ごく初期の青磁窯が2ヶ処、粉青沙器が6ヶ処位で、残りは白磁の窯であった。そのうち主要な窯について説明する。

全羅南道山清郡放牧里、同大浦里、晋陽郡孝子里は、いずれも15世紀から16世紀の窯で、白磁を焼いており、放牧里では珍しく白磁の他に5点の白磁象嵌が発見され、大浦里では、粉青沙器と白磁が重ね焼きされている陶片が発見された。このことは、李朝初期には広州地方以外の地方においても白磁が生産され、また粉青沙器の窯と同居していたことを物語っている。この調査では、井戸の編年の問題も重要な目的であった。井戸が初めて日本の茶会に登場したのは、1581年のことと言われているので、井戸の制作は16世紀後半以前ということになる。河東郡白蓮里の窯址で井戸の破片と思われるものを採集した。高さが15センチ内外の茶碗で、高台ぎわにカイラギを呈したものを井戸茶碗というのであれば、採集した陶片全てが井戸ということにはならない。ほぼ4対1位の割にカイラギが認められた。カイラギというのは、胎土と釉と火が相互に関係し合う中で、胎土と釉の密着に失敗したときに出る現象であろう。従って、意識的に作り出したものではなく、本来は失敗作であっただろうと思う。また白蓮里では他に白磁象嵌の陶片をも採集した。白磁象嵌は15世紀以降には作られていないと考えられているため、この窯は15世紀から16世紀の窯と想定される。更に、16世紀の窯と思われる義昌郡頭東里でも、粉青沙器、白磁と一緒にカイラギのある陶片が発見されている。この河東郡白蓮里と義昌郡頭東里の2ヶ処が、今わかっている井戸茶碗の窯址であろうということを報告して私の話を終りたい。(この後、スライドを使い、多くの作例が紹介された。)

プロフィール
鄭良謨(チュン・ヤンモ)

1934年ソウル生まれ。ソウル大学国史科卒。
韓国国立中央博物館学芸研究室長を経て、現在、韓国国立慶州博物館館長として活躍中。高麗・李朝の陶磁研究における第一人者。
著書は、『韓国の美・李朝陶磁』『世界陶磁全集』など多数。
日時:昭和60年8月27日(火)
会場:中之島中央公会堂 講師:韓国国立慶州博物館
館長 鄭良謨氏
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