友の会通信

「PDF所蔵の中国陶瓷器」
本日はデイヴィッド・ファンデーション(以下、PDFと略す)について、2つにしぼってお話したいと思います。最初にサー・パーシヴァル・デイヴィッドが1,400点にのぼる中国陶磁器を、しかも質的に非常に高い陶磁器を何故に収集できたのかについてお話します。

(1)PDFコレクションの成立と特徴

サー・パーシヴァルは、1892年にボンベイで生まれました。彼の家は祖父の代からボンベイで綿糸貿易に携わり、彼はボンベイの大学を出た後ケンブリッジ大学に進学しますが、同時にその綿糸貿易会社の経営を引き継ぎます。しかもその経営はかなり順調でしたので、サー・パーシヴァルは収集を続ける財力に恵まれていました。こうした順調な経済的基盤の上に、彼が収集していた1925年から40年の間こそ中国陶磁器が市場に多く出回った時期だったのです。その発端として、1911年の辛亥革命後、北京の紫禁城の宮廷コレクションが外部に持ち出され、売却され始めました。1913年には、大阪の山中商会が清朝の恭親王コレクションの売立を行い、1920年代に入ってからは本格的に宮廷コレクションが市場に出回り、山中商会のロンドン支店が非常に大きな役割を果たしました。

その頃の日本における陶磁器への認識度を考えますと、1920年代の大正末期から昭和初期に中国の墳墓の発掘品が市場に出まわり、それも含めて一種の鑑賞陶磁の世界が広げられてきます。当時、大河内正敏氏、あるいは東京国立博物館に多くのものを寄贈された横河民輔博士などが、早くも中国陶磁に関心をもち始めていました。

サー・パーシヴァルは1924年に初の訪中をしていますが、父親によって中国に信用と足場が次第に築かれていたので、既にこの時には中国陶磁を集める意識が彼にはあったようです。それ以降、彼は中国において収集活動をすると共に、それ以上に24年の間、散逸する恐れがあった紫禁城の清朝コレクションを整理かつ管理し、一般に展示する他、展示場の改装費などの経済的援助も行っています。この結果サー・パーシヴァルは中国側の大きな信頼を得るようになり、それは後々非常に大切な財産となります。

そして、彼の人生にとって一番の絶頂期というのが1935年で、この年、ロイヤル・アカデミーのバーリントン・ハウスにおいて「中国芸術国際展覧会(International Exhibition of Chinese Art)」という展覧会を主催しております。その時、中国美術品を総数3,080点、世界中から集め、その半分以上は中国から借りております。陶磁器は 1,372点、内746点は中国からの出品です。残る626点の内、サー・パーシヴァル自身のコレクションから331点が出されています。

当時サー・パーシヴァルは34歳、日本にもこの展覧会のために渡航しています。その時のメンバーは4人で、“Chinese Pottery & Porcelain”の著者、R.L.ホブソン氏、有名なコレクターのユーモルフォプロス氏とラファエル氏でした。日本側も組織を作り応対していますが、我国から出品されたのは、わずか4点−静嘉堂文庫が現在も所蔵の《三彩万年壺》1点、《三彩獅子》1対、《三彩鴨形容器》−でした。

その後の1940年には不治の病に冒されることもあって、この1935年は彼の人生において頂点に達した時でした。彼のコレクションはおそらく 1939年頃で終わり、それ以降に集められたものは少数です。彼がロンドン大学に寄贈した1,400点の内、この時点で彼のコレクションは1,200点位に達しており、既にコレクションの大半が集まっていました。

1951年にロンドン大学が現在の場所に建物を提供し、そこに彼の陶磁器及び蔵書が公開されます。その後、M.エルフィンストーン氏収集の清朝のやきものが200点程加わり、現在PDF所蔵の中国陶磁器は約1,600点です。

PDFのコレクションの特徴は2つあります。第一は官窯陶磁器です。彼は、18世紀の宮廷コレクションを範としていたようであり、宋、元の官窯青磁、明初の永楽から宣徳・成化にいたる青花白磁に収集の中心がおかれ、五代以前のものや、唐三彩陶などは意識的に集めていません。

第二の特徴は、これと矛盾するようですが 、官窯のものではなくても、在銘資料、年号もしくは年号以外の文章が入っているなど、陶磁史的意味があるものを集めています。この2つが彼のコレクションの大きな特徴だと思います。

収集の方法も個性的でして、美術商を通じての収集の他、彼自身が中国あるいはロンドンに於いてディーラーを通さず集めるという方法です。彼は「眼」を持っていました。それが他のコレクターとは違った側面ではないかと思います。

サー・パーシヴァルは前述のように資金に困ることもありませんでした。そして何といっても辛亥革命以降、中国から美術品が流出したことが、この巨大なコレクションを形成できた要因と思います。川島公之さんが『陶説』535・536号に「中国美術品が市場に乱舞する黄金期が1920年代である」と書かれていますが、まさにその時代に遭遇した時の利と、優れた眼を持っていた一人の人物が邂逅したことが、PDFのコレクションに結実したのです。

(2)PDF所蔵の款銘陶磁器

PDFのコレクションを特徴づけるのは、多くの款銘陶磁器の存在です。単に年号を表記したものを除いて30点以上の資料があり、大英博物館もこれに及びません。そこで清朝以前の主な作品について私見を述べます。

《青磁盤口双耳瓶・PDF258》は、銘文もよく知られ、北宋青磁の基準作であります。「元豊参年(1080年)閏九月十五圓日」閏月の満月の日に、「上色の粮土甕 を焼きて、千万年の香酒を貯え続けんことを願う」上色のつまり上手の粮 土甕というのは食料、穀物用容器、それを焼いたという意味です。スケッチ風の線刻絵が「粮 土甕」の左側に彫られています。そしてこの瓶の中に千万年蓄えられるように香りの強い酒を神様に捧げるということが前半の部分で、「あの世に帰って百年の後、まさに千子万孫をふやし、永く富貴を招き長命大吉なるべし、受福無量にして天下太平なるべし」と自分の子孫が繁栄することを、死者に代わり喪主がこれに託して祈った銘文です。しかし、これだけでは被葬者の名前や、誰のためにこの「上色の粮 土甕」を作ったのかということがよく判りません。

これらを解決するのが大和文華館にある《青磁多管瓶》です。やはり「元豊参年又九月十五圓日」という銘があります。「又」は閏という意味で、9月15日、全く同じ日の銘文の入ったものです。「福寿を増添し、鬯を且つ之に進め、何十二婆に与う」。「ちょう鬯」とは酒の一種で、黍と香草を混ぜ醸した香酒をさします。「鬯を且つ之に進め」というのは神に進めるということです。神に捧げて、その酒を「何十二婆に与う」とあります。「何」は姓であり、「十二婆」は12子目の年配の女性ではないかと思います。というのは中国では「排行」という言い方があり、子供とか親戚とかを何番目の子供と番号をつけることを「排行」と言っております。何家の十二婆が故人です。この方にこの「鬯」という酒を与えて、百年の後まさに「安んじて孫子をふやし、富貴にして長命大吉なるべし」と前の瓶の銘と同じ意味になります。

この2つの作品では、「元豊」、「年」、「長命富貴」など20字が共通しています。これらを並べて見ますと、書き癖や文体、内容も同じですので、この2口の銘文は同一人物が書いていると思われます。現在、1つはPDFに、1つは大和文華館に分かれて所蔵されているわけですが、かつては同一の墓の随葬品と思います。私はそれについて『大和文華研究』91号に「元豊参年銘青磁をめぐる諸問題」として論文を書いておりますので、ご参照ください。

大和文華館品の作品の高台を見ますと、畳付きの部分に釉を一回かけて拭きとったような痕があり、PDFのものとほぼ似ております。私は1994年に論文を発表した時に、この生産窯について、越州窯青磁とすることに疑問をもち、大和文華館に越州窯青磁ではないように思うと申しました。その後中国の浙江省の考古研究所の朱伯謙氏という大変優れた研究者に実見していただいたところ、「龍泉窯の産品だと思う」とおっしゃいました。その直後に改訂された大和文華館の図録には龍泉窯になっており、今日ではまず龍泉窯で間違いないと思います。

現在、龍泉窯青磁は大きく研究が進展しつつあり、中国側でも見解が変わってきています。1998年10月に浙江省杭州で龍泉窯をめぐるシンポジウムがあり、その時に驚くべき話がありました。越州窯の上林湖で焼成されたと考えられてきた蛇の目高台碗と全く同じものが龍泉窯でも作られている見解が出されています。窯址の明証はまだ不明確ですが、上林湖タイプの越州窯も龍泉窯で焼いていたという見解です。越州窯青磁というのは、浙江省の杭州から寧波にいたる杭州湾沿岸沿いに広がり、唐代には非常に盛行した青磁ですので、浙江・福建などの地域に倣越州窯ともいうべき青磁が作られ、景徳鎮窯も晩唐時代に越州窯タイプのものを作っています。こうした状況の中で龍泉窯だけが孤立しているはずがなく、ここもまた最初は越州窯のコピーから始めていると考えて何ら不思議はないと思えます。この詳細については、『龍泉窯青磁』(台湾・芸術家出版、1998年刊)をご参照ください。

《青花雲龍文双耳瓶・B613, 614》「至正十一年(1351)」に作られた青花の瓶であり、従来この銘文は「至正十一年」の年号だけが大きく取り上げられましたが、実際にどのような経緯で作られたか等の銘文の解釈については、今回の図録中の解説によって、初めて明確に述べられたと思います。冒頭の「信州路、玉山県系、順城郷、徳教里」は地名であり、現在の江西省玉山県に該当するところがあります。この玉山県は景徳鎮の東南120kmほど離れたところで、浙江省と江西省との境に近いところですが、そこに住んでいた「荊塘社」という道教の集団の一人である「張文進」が「香炉と一対の花瓶とを喜捨し、合家の清吉と子女の平安を保たんことを祈る」。奉納されたところは「至正十一年四月吉日…星源祖殿胡浄一元帥」とあり、道教の一種の祠のような建物であって、そこに祭られている「胡浄一元帥」という道教の神様に敬礼をし、この香炉一個と花瓶一対を寄進すると解釈できます。以前から私が気になっていたのは、銘文の中に香炉と花瓶一対とあり、これは寺院に寄進する時の一式だと思います。ところが元青花の香炉というのが非常に少なく、私はほとんど見たことがありません。景徳鎮の陶磁館で1点調べましたが、高さ20cmくらいの小型品です。至正11年の瓶が63.4cmですので、釣合からいえばこの香炉はもっと大きくなければなりません。最近の『文物』1998-10号に四川省三台県出土の香炉が出ており、これも大きさが12cmであり、模様が略描体に近いものです。元青花というのは2つタイプがあって、至正銘のようにキリッとした力強いデザインのものと、略描体のものがあります。つまり至正十一年の瓶とこれではセットにできません。大きさとデザインの両方でそう思われます。

そこで元時代以外で探して見ますと、明初と思いますが、故宮博物院の所蔵で、高さが31cmの青花香炉があります。このくらいの大きさでないと、至正十一年銘の瓶と均整がとれないかと思います。非常に大きな把手と一種の皿形の口をつけている形が、元から明代の香炉の形式ですが、このような形で、元青花のキリッとした至正タイプのものが、どこかで発見されたならば、この至正十一年の瓶と共にかつて玉山県の星源祖殿に奉られていたものかもしれないと、夢みております。

サー・パーシヴァルのバックボーンの一つは『格古要論』『陶説』という清朝の文人が愛読していた陶磁器に関する本です。こうした清朝の“文人趣味”を基準にサー・パーシヴァルは官窯作品を集めると同時に、記年銘のものを集めていました。この二つの要素がPDFの陶磁器の大きな特徴といえます。それについて、今日はお話いたしました。どうも長時間ご静聴いただき、ありがとうございます。

プロフィール
亀井明徳

昭和44年九州大学文学部文学研究科修士課程修了。文学博士。福岡県教育委員会文化課、九州歴史資料館を経て、現在専修大学文学部教授。主な著書に『九州の中国陶磁』(西日本新聞社)、『日本貿易陶磁史の研究』(同朋社出版)、『福建省古窯跡出土陶瓷器の研究』(都北印刷出版社)など。
日時:平成10年12月19日(土)
会場:弁護士会館 6階大ホール
講師:専修大学文学部教授 亀井明徳
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