友の会通信

耀州窯の青磁について
耀州窯の展覧会を担当することになってから悩みがはじまりました。というのは耀州窯自体の概念規定のあいまいさに驚いたわけです。当館には重要文化財に指定されている耀州窯の名品がありまして、それに付随するイメージとしてなんとなく耀州窯を考えていたわけですが、その作品に対する位置付がいろいろと変わってきて汝窯とよばれていたものが耀州窯と呼ばれるようになったのです。展覧会の趣旨としては耀州窯がどのように生まれ繁栄し、衰退していったかという歴史的な展開をたどるということともうひとつ耀州窯独自の様式があるのかどうかを検討するところにあります。耀州窯様式の青磁が耀州窯で生産されたものであるかどうかということも問題でありますし、どの窯をもって耀州窯と決めるのかも問題であります。

古い話ですが1964年の陳万里氏の論文で中国陶磁に存在する幾つかの問題点を指摘したものがあります。陳万里氏というのは小山冨士夫先生が書かれた『支那青磁史稿』にならって『中国青磁史略』を著され、中国陶磁研究の草分け的な方であります。彼が中国陶磁に存在する問題を十五項目あげておりますがそのうちに耀州窯に関わるであろう問題が何と四つも含まれていまして、いかに耀州窯というのが様々な問題をはらんでいるかということがわかりました。ちなみにその該当すると思われる項目をあげてみます。
一番目は北方の初期青磁というものはどういうものであるか。二番目が宋窯について。三番目は臨汝窯、耀州窯、そして秦窯、これは甘粛省の天水県にある窯でありますが、それから宜陽窯の印花の青磁の問題。これらは現在我々が耀州窯系と呼んでいる青磁の問題であります。四番目には五代の柴窯について。あとは耀州窯と直接関係ないので省きますが、最後に歴代陶磁の器形と文様の変遷についての検討の必要性も述べておられます。耀州窯にたいしてどのようにアプローチするか、つまり展示の全体構想をどうあるべきかということが一番の問題となりました。耀州窯展ということから耀州窯の青磁という方向に焦点が変わっていったのは、耀州窯の全貌を解き明かそうという最初の意図から耀州窯系青磁の指導的な窯である耀州窯の優位性について示そうということに変わっていったからです。耀州窯系の取り扱いと耀州窯自体の歴史的展開を考え合わせ、その接点は耀州窯の青磁ということになろうと思います。

ところで耀州窯の場所は陜西省の西安の北120kmぐらいのところにある銅川市にあります。耀県と銅川市街とのほぼ中間地点の黄堡鎮が現在我々が耀州窯とよんでいる窯の中心地であります。この地域はかつては耀県に属し、耀州窯と呼ばれたわけですが、その後、同官県に属し現在では銅川市の行政区域内にあります。したがいまして耀州窯という名称は随分昔から文献の上ではあきらかにされていました。その耀州窯という名称と作品とが一致するようになったのは戦後の発掘調査によってであり、以前は汝窯と分類されていました。その汝窯が耀州窯と一斉に名称変えが行われたわけですがそれが妥当であったかどうか検討する必要があります。文献上には耀州窯も汝窯も登場してまいります。ただ汝窯が汝官窯タイプのものを除いた場合、耀州窯とほとんど区別がつかないような製品も生産しているわけです。この区別をするにあたって本質的に窯の系統が違うか、あるいは、見かけ上ちがうだけで同一のルーツをもつものか、また省が違えば別の呼び名をしなければいけないのだろうか。
ここでは例えば耀州窯と臨汝窯を例に相互関係を考えてみたいと思います。北宋時代の華北の窯は耀州窯系、磁州窯系、鈞窯系、定窯系という四つの窯系の組み合わせによってできていると思います。これらの組み合わせの仕方でそれぞれの地域の特徴ある窯が説明できるわけですが、耀州窯を耀州窯系の代表的な窯であることを示す必要があると思います。まず耀州窯の文様の自律的な展開を認めその波及として耀州窯系が形成されていったと考えられるのではないか。耀州窯の青磁の文様がいかに好評であったかは出土例からその広がりを見ることもできますし、模倣されていく状況からも明らかにあるでしょう。

現在我々が目にする青磁をどうとらえていくか。例えば二つの方法が考えられます。一つは現象的にとらえる方法で、見えるままに克明に分析し、徹底的に観察をし、表現していく方法です。もう一つは存在論的な分析の方法であります。作品の在り方がどういうふうな状況であるのか、その位置付けというのが過去との関係において作品そのものではなくて作品がどういう性格をもっているかというような存在の仕方を問うアプローチの仕方があります。一方を考古学的、他方を歴史学的という言い方も可能かもしれませんが、作品の質を問うという点でやはり違うような気がします。現象学的な分析というのは作品そのままでもって語らせていけばいいわけで耀州窯と臨汝窯の産地の明らかな作品を二つ並べて例えば、釉色であるとか、高台の作り方、文様の彫り方の勢い、芸術的にどちらがすぐれているかという価値判断までも含めて徹底的に分析し、比較することができるわけです。もうひとつ存在論的な証明といいますとどういうふうに使われていくのかあるいは歴史的な発展、どちらかが先行していたかというような考察をし、他の作品群との存在の仕方の違いを比較検討することです。比較するとどちらが優位であるのか明らかになってまいります。耀州窯はこの場合耀州窯系の中でも抜きん出た存在となっています。我々が目にする耀州窯系と思われる青磁を耀州窯の産だとする根拠は直接窯跡の陶片と比較し、同定するのではなく作風や出来栄え、仕上げ方などから我々の直感による部分がおおいのです。しかし、この直感は無数の情報をインプットしたコンピューターによる判断に近いものです。

一般に工芸作品と言いますと我々の知っている芸術観では応用芸術的な側面があります。しかし純粋芸術としての自己目的的な面と応用芸術としての他目的的な面の二つを取り出して論じる西洋美学的な視点から脱して東洋の工芸は一つの精神的な価値としての芸術にまで高められたものが多く見られます。同じ依頼を受けて製作しても、ただ設計図どおりにものをつくるのではなくそこに何か人間の精神が反映されたものができるわけです。作品を作る時には必ず何かが反映されてくるのです。その形が個人様式や集団、地域の様式の場合もありますし、その時代の雰囲気を反映した時代様式の場合もある。工芸作品は無意識のうちにその時代の様式を反映しているものが多く、例えば北宋の雰囲気があるとか盛唐の雰囲気があるとかいうのはまさにそのことであります。作っている人自身にはそういう様式というのは真っ只中にいて見えないわけで、その作品の製作に没頭し、ある意味では芸術的なエネルギーを注ぎ込んで作ると非常に時代精神を反映したものとなってまいります。そしてそこには芸術的な価値を見いだすことができる作品になってくるものがあるわけであります。話が随分ずれてきましたけれど何を言いたいかといいますと、耀州窯の様式と臨汝窯の様式とがどのように違っているかということであります。表面的には区別は非常に困難であり、単に釉色の違いや高台の作り方や胎土の違いからよくわからない。しかし現象学的にそのものをじっと観察していけば、おのずと質的な相違というものが明らかになってくるのではないかと言うことです。なぜ臨汝窯より耀州窯がすぐれているかという問題は全くの別の問題です。技術的な問題であるのか歴史的な問題であるのかわかりませんが実際に二つの様式を見比べ質的な相違がどうであるかということはおそらく言うことができると思います。そこは影響関係といいますか、模倣関係といいますかとにかくオリジナルとコピーの質的な相違に似たものがあるからです。ここで臨汝窯が耀州窯を模倣したと即断するわけではありませんが陶片を観察すると確かに違いがあるようです。

耀州窯と一般に呼ばれるようになったのは第二次世界大戦後のことであります。それまでは欧米では北方の青磁と呼ばれ、中国では北龍泉とか北麗水とも呼ばれていたこともあります。日本ではこれを汝窯と呼んでいましたが、それは大谷光瑞氏の指示で原田玄訥氏が臨汝窯を調査した際にでてきた青磁の陶片が文献上で著名な汝窯であろうということになったからです。第二次世界大戦後に臨汝窯を調査しました報告書では鈞窯風のものが多くあり、むしろ耀州窯スタイルのものはマイナーな存在で、しかも出来がそれほどよくないわけで、そのあたりに矛盾を感じつつ、臨汝窯で採取された陶片を根拠に耀州窯のものをすべて汝窯とよんだものです。そのあたりの無理は欧米では気付いていたのか、ずっと北方青磁と呼んでいました。1950年代になって銅川市の黄堡鎮を中心とした大規模な発掘調査が行われ、本格的な報告書が刊行されました。また「徳応候碑」と呼ばれる耀州窯の窯神の碑が発見され、文献的にも北宋時代の耀州窯の活動が確認されたのです。これによって、耀州窯の位置付けが決定的になるとともに、それまで汝窯と呼んでいた臨汝窯のものまでも吟味しないで、耀州窯と呼ぶようになりました。耀州窯と臨汝窯では作行というか、作品の完成度が違う訳ですが、ちょっと見ただけではそれほど顕著な違いはなく、したがいまして、現在、唐時代に起源をもつ狭義の耀州窯と耀州窯系をなしている広義の耀州窯が混乱した使い方をされているわけです。いいものが耀州窯で、質的に劣るものが耀州窯系であると断定するのではありません。現在耀州窯と呼んでいるもののなかには随分と臨汝窯などの産地のものが含まれていると思います。

耀州窯が耀県であったのは北宋以降のことでそれまでは、べつの名称で耀州窯を呼んでいたのではないかという推測がなりたちます。唐代の鼎州窯がそうであるという説もあり、最近では唐三彩が発掘されています。また東窯といわれている製品が耀州窯産であるのかどうかも今後解明されていくと思います。狭義の産地に視点をおく耀州窯だけでなく、陶磁史のダイナミックな流れのなかで耀州窯系をさらに考察していくことが必要だろうと思います。
(以下、スライドを使って具体的に作品解説をした。)

プロフィール
出川哲朗

1951年松江市生まれ。
大阪大学大学院文学研究科修士課程終了(美学・芸術学専攻)。
西宮市大谷記念美術館学芸員を経て、現在、大阪市立東洋陶磁美術館学芸員、中国陶磁史を研究。
共著『芸術現代論』(昭和堂)、共著『現代芸術のトポロジー』(剄草書房)他。
日時:平成3年7月6日(土)午後1時半〜3時半
会場:中之島中央公会堂・3階中集会室
講師:大阪市立東洋陶磁美術館 学芸員 出川哲朗
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