陶磁の歴史
日本陶磁の系譜
小林 仁
1. 土器
縄文土器
日本陶磁の歴史は、世界最古の土器ともいわれる縄文土器に始まる。縄文土器の名は、大森貝塚の発掘で知られるE.S.モースの用いたCord marked potteryに由来する。放射性炭素(C14)の測定によると、最古のものは約1万2千年前まで遡る。1万年以上続いた縄文土器は、その器形の変化によって大きく6つの時期区分(草創期・早期・前期・中期・後期・晩期)に分けられ、さらに地域的にも細かく編年されており、一口に縄文土器といってもその実体は多種多様である。草創期の豆粒文土器や隆線文土器、中期の火焔型土器、後期の亀ヶ岡式土器、それに中期から晩期にかけての土偶などが代表的である。縄文土器は一般に粘土紐を巻き上げてつくる方法が採られており、窯を築かない野焼という焼成方法により、800〜900度前後で焼かれた。
弥生土器
縄文土器に続くのが弥生土器であり、紀元前3世紀頃に北九州を中心に始まったとされる。その名は、1884年の東京都本郷の弥生町向ヶ丘貝塚(弥生町遺跡)での発見に由来する。従来の狩猟・採集生活から農耕生活への変化が弥生土器誕生の一つの要因であり、農耕生活にふさわしい器種も登場し、貯蔵用の壺、煮沸用の甕、食器用の高杯などが基本的な組合わせとなる。地域によっては、一部の器種や装飾などに縄文土器の伝統が見られる。弥生土器は前期・中期・後期の3期に分けられており、とくに前期の遠賀川式土器、中期の須玖式土器が代表的である。
土師器
弥生土器の後身が古墳時代の土師器であり、その名は平安時代の『倭名類聚抄』や『延喜式』などの文献に由来するが、実際には、古墳時代以降の古代の素焼土器の総称となっている。古墳時代の土師器は、縄文土器や弥生土器同様、粘土紐の巻き上げによる成形と低火度の酸化焔焼成に拠っており、その器種構成は弥生土器のそれを踏襲している。土師器の用途は祭祀用と日常用とに大別されるが、須恵器の出現によって大きく影響を受け、基本的に貯蔵用は須恵器、煮沸用は土師器が用いられることになった。
須恵器(器・硬質土器)
須恵器は朝鮮半島の陶質土器の系統に属し、その影響は初期の器形に色濃く表れている。須恵器の登場は日本陶磁史における最初の技術革新であった。すなわち、窖窯の採用、轆轤成形による量産、高火度の還元焔焼成などである。こうした朝鮮半島からもたらされた新しい製陶技術は、その源流が中国殷時代の灰陶にまで遡る。須恵器の生産地として有名なのが、大阪府南部の丘陵にひろがる陶邑古窯跡群であり、古墳時代の5世紀初頭からその活動が始まったとされている。その技術は、後に全国へと広がっていった。7世紀以降、中国や朝鮮半島の金属器を写した器形へと造形的に大きな変化を見た。奈良時代末に新たに出現した灰釉陶器や施釉陶器が流行するにつれ、須恵器生産は衰退の方向に向かうが、逆にその技術は後の中世陶器の基礎となった。中世の焼締陶器とともに、欧米のストーンウェア(Stoneware)に対応する訳語である炻器(せっき)の一種に分類される場合がある。
中世・近世の土器
6世紀頃から東日本では土師器の支流ともいうべき黒色土器が新たに出現し、また8世紀から須恵器生産の衰退した畿内以西でもその生産が始まった。とくに西日本では11世紀以降、その黒色土器の後身といえる、碗と皿を中心とした瓦器(瓦質土器)が量産された。土師器は中世になると供膳用の小皿や鍋・釜類が主体になり、これらはかわらけやほうろくなどとして中世・近世を通じて生産されつづけ現在にまで至る。
2. 陶器
古代の陶器
日本における陶器の始まりは、7世紀後半に出現した緑釉陶器をはじめとする一連の施釉陶器である。いずれも中国や朝鮮半島からの影響という受動的なものであったが、そこには先進の文化を積極的に採り入れていこうとした、日本の古代国家草創期の活力と中国・朝鮮半島文化への憧憬が感じられる。
奈良・平安時代(538〜794)の陶器は三彩や緑釉を施した低火度鉛釉陶器と、高火度焼成の灰釉陶器に大別できる。前者は中国の唐三彩や朝鮮半島の緑釉陶器の影響下に生まれたもので、正倉院三彩に代表される奈良三彩や緑釉陶器という彩釉の施された陶器であり、当時「瓷」、「瓷器」、あるいは「青瓷(あおし)」と呼ばれていたことが文献から知られる。一方、後者の灰釉陶器は、8世紀後半から愛知県の猿投窯で本格的にその生産が始まり、当時「白瓷(しらし)」と呼ばれていた。これらが人工的な釉薬を施した日本で最初のやきものである。
(1)彩釉陶器
彩釉は、鉛釉を基礎に、銅・鉄・白石などを呈色剤にして緑・黄・白色などを発色させたものである。これまでの考古学的発掘の成果によると、すでに5世紀に中国の影響により緑釉陶器を生み出していた朝鮮半島の影響を受け、7世紀後半に日本でも緑釉陶器が三彩陶器に先行して生産され始めた。
奈良三彩の手本となった中国の唐三彩は、寺院遺跡を中心とした日本各地の遺跡から出土しており、中国では主として副葬品だったものが日本では主に仏器として使用されたことが分かる。多種多様な器形の知られる奈良三彩は、祭祀関係遺跡から出土した例が多く、その特殊な用途がうかがわれる。有名な正倉院三彩も、本来は東大寺の儀式用調度品であり、天平勝宝4年(752年)の大仏開眼会などで使用された記録が残る。また、火葬蔵骨器としての出土例も多く、薬壺(やっこ)といわれる独特の器形が特徴である。これらの奈良三彩は都の官営工房で製作されたものと考えられる。
奈良三彩は8世紀後半になると姿を消し、代わって二彩や緑釉の陶器が中心となるが、質的には粗悪化した。9世紀初頭の平安時代(794〜1185)になると、緑釉のみの単彩釉陶器が盛行する。平安時代の緑釉陶器の生産地としては、愛知県の猿投窯・尾北窯と山口県の長門窯が知られる。また、その造形は主として金属器を模したものが多く、当時輸入され始めた中国の越州窯系青磁を写したものも知られる。緑釉陶器流行の背景には、こうした金属器や中国産青磁への憧憬とその代用ということが考えられる。しかし、平安時代の緑釉陶器は11世紀前半でほぼその姿を消した。
(2)灰釉陶器
灰釉陶器は、植物の灰を原料とした釉薬を用いた、高火度焼成による硬質の施釉陶器である。8世紀後半頃から、須恵器の製作技術を基礎に、愛知県の猿投窯でその生産が始まった。須恵器においてすでに自然釉の出現を見ていたが、これは窯内で灰がかかり、それが結果的に釉薬をかけたようになったいわば偶然の産物であった。しかし、経験的知識によって次第に自然釉を意識した窯内配置が行われるようになった。こうした段階の自然釉を原始灰釉と呼び、自然釉と灰釉の中間に位置付けているが、その判別は必ずしも明確ではない。
灰釉陶器は猿投窯を中心とする愛知県西北部から岐阜県南部にかけての尾張・美濃地域から、さらには東海地方へと広がった。当初の製品には須恵器を写したものが多く、長頸瓶・水瓶・短頸壺などが知られる。また、中国の越州窯系青磁なども写された。猿投窯では11世紀末頃になると、灰釉陶器の生産から大量消費用の山茶碗の量産へと大きく転換し、また東海地方でも12世紀までに灰釉陶器は姿を消す。
中世の陶器
日本陶磁史における中世とは、平安末期から鎌倉・室町時代にかけての時期を指し、古代の窯業生産の系譜を引きながらも、新たな窯業体制が確立された時期であった。土師器系の土器がつくり続けられた一方で、次のような須恵器系と瓷器系という2種類の陶器が生産された。
(1)須恵器系陶器
平安時代の須恵器の技術を基盤とし生まれた中世陶器には、須恵器と同様の還元焔焼成による灰黒色の陶器と、酸化焔焼成に転じた赤褐色の陶器の2種類がある。前者は珠洲窯(石川県)を筆頭に、魚住窯(兵庫県)や亀山窯(岡山県)などが知られ、一方、後者の代表は備前焼(岡山県)である。いずれも壺・甕・擂鉢(すりばち)を中心とした器種構成であり、土師器系土器とともに日常什器の基本となった。櫛目文や叩き文などの文様装飾と灰黒色の肌によって独自の風格を生み出した珠洲、独特の赤みがかった土味と重厚感ある造形を特徴とする備前と、同じ須恵器系ではあるがそれぞれ全く異なる魅力を有している。また、鎌倉時代前期に還元焔焼成から酸化焔焼成による焼締陶器の生産への転換に成功した備前が、近世へとその伝統が継承されていくのに対して、還元焔焼成の珠洲窯は越前に押され中世でその姿を消し、両者は命運を分けた。これら須恵器系陶器は、高火度で焼き締められたもので、須恵器同様、器の範疇に分類される場合がある。
(2)瓷器系陶器
(a)山茶碗窯系陶器
11世紀末までに姿を消した灰釉陶器に代わって登場したのが、山茶碗窯の無釉粗製陶器(白瓷系陶器)であり、その生産は東海地方一帯に広がった。山茶碗は、俗に行基焼、藤四郎焼ともよばれる大量生産による無釉の日常雑器である。当初、灰釉陶器系の碗・皿類が中心に量産されたが、しだいに中国製白磁を写したものが増え、四耳壺などの器種も登場した。愛知県をはじめ岐阜・三重・静岡など、現在までに2000基以上の窯跡が知られている。15世紀中頃までその生産が続いた。
(b)焼締陶器
11世紀末から12世紀にかけての平安時代末より、壺・甕・擂鉢を中心とした「無釉」の焼締陶器の量産が、常滑・渥美(愛知県)をはじめ、越前(福井県)・信楽(滋賀県)・丹波(兵庫県)・加賀(石川県)など、東海地方から北陸・東北地方、さらには西日本各地で始まる。そこでは古代の灰釉陶器の製作技術を踏襲しながら、酸化焔焼成による器質の硬質陶器がつくられた。文字通り無釉ではなく、自然釉が往々にして見られ、しかもそれがかえって大きな魅力となっている場合が多い。すでに釉薬が装飾効果としてかなり認識されていたことがうかがえる。一方、刻文壺と呼ばれる大和絵を反映した各種文様が描かれた壺も数多く焼かれている。また、経筒外容器として、あるいは火葬骨を納入する蔵骨器として使用された出土例も多い。
(c)施釉陶器
瀬戸・美濃は中世窯業における中心地の一つであり、中世で唯一施釉陶器を生産した窯として特筆される。瀬戸における陶器生産の始まりについては、猿投窯や山茶碗窯を基礎にして12世紀に確立したと考えられている。瀬戸ではそれまでの灰釉に加え、鉄釉や褐釉を用い、印花文・劃花文・貼花文などの装飾技法を駆使しながら、北宋から元・明にかけての青磁(龍泉窯系)と白磁・青白磁(景徳鎮窯系)を中心とした中国陶磁の写しを盛んに行った。瀬戸窯の製品は、日常生活用具から仏器まで多彩であり、四耳壺・瓶子・水注などの高級器皿も13世紀以降焼かれ、輸入中国陶磁とともに富裕階級の需要に応えた。また、鎌倉時代後期から室町時代にかけての「茶の湯」の勃興とその唐物趣味を背景に、14世紀からは中国陶磁写しの天目茶碗や茶入などの茶陶もつくられるようになった。 15世紀になると、瀬戸系施釉陶器の生産の中心は岐阜県の東美濃に移った。
近世の陶器
(1)室町・桃山時代の陶器〜茶陶の隆盛
(a)瀬戸系施釉陶器〜瀬戸・美濃
室町時代後期から、従来の中国陶磁写しとは全く異なる製品が美濃でつくられ始めた。その代表が瀬戸黒と黄瀬戸である。前者は半筒形の茶碗で引出黒と呼ばれる漆黒の釉色を特徴とするもので、後者は黄釉と胆礬(たんぱん)と呼ばれる緑釉を特徴とした独特の肌合いと端正な造形を持つものである。こうした新たな製品が生まれた背景には、茶の湯における従来の唐物志向に対して、「侘び数寄」(侘び茶)と呼ばれる価値観が京都や堺などの町衆の間に台頭し、その価値観にふさわしい製品が需要されたことによる。これ以後、すなわち室町時代末から桃山時代にかけて、とくに茶の湯において国産陶器(和物)の地位は飛躍的に向上し、和物茶陶生産の隆盛へとつながっていった。それと同時に、いわゆる「高麗茶碗」をはじめとした朝鮮半島の陶磁器も大いに流行し、和物茶陶の作風にも大きな影響を与えた。
また瀬戸・美濃では従来の半地下式の窖窯から、高火度焼成と大量生産の可能な半地上式の窖窯である大窯(おおがま)への転換という技術革新が室町時代後期から行われた。その結果、美濃窯では天正(1573〜92)から文禄・慶長年間(1592〜1600)にかけて、瀬戸黒・黄瀬戸に加え、長石釉(白釉)による日本最初の白色陶器で、鉄絵による絵付を行った志野も登場し、茶陶を中心にさらに各種食器に至るまでその生産はひろがり、桃山陶器の一大生産地となった。ことに美濃で慶長年間(1596〜1614)中頃に唐津から熱効率の良い連房式登窯を導入した元屋敷窯(岐阜県土岐市)が築かれたことは、需要増加に伴う大量生産の推進ということが大きな要因であった。熱効率の改善によって、それに適した織部焼の生産が以後増大した。鮮やかな緑釉と鉄絵を併用し、また歪みの美を強調した奇抜な造形を特徴とする織部焼は、南蛮趣味の意匠や辻が花といった服飾デザインなど、時代の最先端の文化を採り入れながら一大様式をつくり上げ、陶磁器の新たな可能性を開拓した。織部焼の名は武将茶人・古田織部(1543〜1615)に由来し、茶人が文化的に強い影響力をもった時代性を象徴するものといえる。
(b)軟質鉛釉陶器〜楽焼
京都では千利休(1522〜91)の指導の下、初代長次郎(?〜1589)によって楽茶碗がつくられ、ここに茶碗製作を生業とする楽焼が誕生した。茶会記には「宗易形ノ茶ワン」、「今ヤキ茶ワン」が天正14年(1586年)に登場したことが記載されており、これらが長次郎のつくった楽茶碗であるという考えが現在定着している。楽焼の祖といわれる初代長次郎は、元来は瓦職人であり、初期の「獅子留蓋瓦」(1574年)に見られるその非凡な彫塑技術は、それと対照的な性格の茶碗の製作を考える上で大変興味深い。楽焼の特徴は轆轤を使わず手づくねで成形することで、低火度焼成の軟質鉛釉陶器に属し、主体となるのは黒楽・赤楽と呼ばれる2種類の茶碗である。二彩・三彩の作例もあり、当時請来されていた中国南方の三彩系製陶法の影響が指摘されている。京都の玉水焼や金沢の大樋焼も楽焼の系譜である。江戸時代に入るが、書画・工芸など多彩な才能を見せた本阿弥光悦(1558-1637)は、長次郎の後継者にあたる常慶より楽焼の手ほどきを受けたが、その豊かな芸術性を背景にした趣味的で自由な作風は茶碗に一つの新たな可能性を与え、現在も高い評価を得ている。
(c)無釉焼締陶器〜備前・信楽・伊賀
壺・甕・擂鉢の三器種を中心として生産された中世以来の焼締陶器は、茶の湯における侘び茶への関心とともに脚光を浴びるようになった。中でも信楽と備前は、和物陶器としては早くから茶の湯において取り上げられ、茶会記にも「信楽水指」や「水指ひせん物」といった記載が見られる。当初は日常雑器として使用されていたものが見出されて茶の湯に使われた場合が多く、信楽では鬼桶とよばれる民具が水指として用いられた。備前は水指や花生に優品が多く、赤みを特色とする焼き上がりの土味と重厚感あふれる豪快な造形が魅力である。また、三重県上野市及び阿山町一帯の伊賀は、主として水指や花生においてとくに注目され、均一性とは正反対のその豪放な作風は当時大変好まれ、いわゆる「破格の美」を代表するものの一つとなった。とくにビードロ釉と呼ばれる自然釉や赤黒く焦げた土味が魅力である。
(d)朝鮮系施釉陶器〜唐津
唐津焼の誕生は、天正20年(1592年)銘の壺や各地での発掘調査などから、天正年間(1573〜92)にはじまったと推定され、文禄・慶長年間(1592〜1614)頃に朝鮮半島から佐賀県・長崎県一帯の肥前地方に移住させられた陶工によってその活動が本格化した。岸岳(鬼子岳)山麓の諸窯が初期の窯であり、そこでは登窯(のぼりがま)という大規模な焼成窯が導入された。慶長年間(1596〜1614)中頃になると、熱効率の良い朝鮮系連房式登窯を導入することにより大量生産が可能になった。従来日本には無かったこの新たな窯構造は、美濃をはじめ全国に広がっていった。連房式登窯による量産体制を背景に、多彩な製品を生産して全国へ流通したことにより、唐津は新たな施釉陶器の生産地として一躍有名になった。その作風は朝鮮半島や美濃などの影響を受けつつ形成され、茶陶では高麗茶碗写しや水指・花生・向付などに優品が多く、また各種一般飲食器の全国シェアでは美濃を超えるまでになった。とくに鉄絵具で下絵付をし、長石釉をかけた絵唐津は代表的なものである。叩きの技法、蹴り轆轤の使用、象嵌技法など、朝鮮半島から伝わった技術を駆使している。西日本では後に「唐津物」がやきものの代名詞にまでなった。
唐津以外にも、高取(福岡県)・薩摩(鹿児島県)・八代(熊本県)・上野(福岡県)・萩(山口県)・伊部(岡山県)など、西日本各地に朝鮮系施釉陶器を生産する窯が築かれ、日本の窯業を大きく発展させることになった。
(2)江戸時代の陶器〜京焼
慶長末年から元和年間(1615〜23)にかけて、京都では楽焼に加え、粟田口焼や清水焼がつくられた。そして正保4年(1647)頃、野々村仁清(生没年不詳)によって御室仁和寺門前に御室窯が築かれ、さらに明暦2年(1656)頃から色絵陶器がつくられ始めたことは、江戸時代の陶器の新たな幕開けであった。陶器に上絵付をするという試みは、この頃すでに肥前で始まっていた色絵磁器に着想を得たものであったと考えられる。また、当時すでに輸入されていた交趾系の色釉技術の影響も考えられる。色絵を陶器に施すという技法は中国でも類を見ないもので、仁清の独創性は注目に値する。
金森宗和(1584〜1656)の庇護の下、仁清は完璧なまでの造形力と繊細緻密な色絵技法を背景に、王朝趣味的な優雅で華麗な作風を完成し、宮廷を中心にもてはやされた。仁和寺と本名である清右衛門に由来する「仁清」の名を自らの作品に捺印したことは、陶工の一つの自己主張として注目される。弟子の尾形乾山(1663〜1743)は、元禄12年(1699)に洛北鳴滝泉谷に開窯し、この地が京都の乾の方角にあることから「乾山」と号した。白化粧や釉下色絵など独自の技法により絵画性を意識した作風を生み出したが、そこには兄であり、琳派を代表する大画家・尾形光琳(1658〜1716)の少なからぬ影響がある。乾山の陶器に光琳が絵付けを行った両者の合作も多く残っている。乾山は仁清に倣い、自らの名を陶器に独自の書体で墨書し、それが一種のブランド的価値を与えた。乾山は仁清より授かった陶法を『陶工必用』としてまとめ、後の京焼の一種のバイブルとなった。幕末には、京都ではじめて磁器を焼いた奥田頴川(1753〜1811)、その門下で中国清時代の陶書『陶説』によって作陶を始めた文人・青木木米(1767〜1833)、幅広い作風の仁阿弥道八(1783〜1855)、金襴手や交趾、染付など中国陶磁の意匠を茶器にとり入れた永楽保全(1795〜1854)などの名工が輩出して、連綿と京焼の伝統が続き、現在にまで至る。
3. 磁器
磁器の始まり
日本における磁器の創始については、1970年代からの考古学的成果によると、唐津の陶器窯においてであったとの考えが有力になっており、その年代は 1610年代に置かれている。寛永14年(1637)、磁器の商品的価値に注目した鍋島藩の介入による有田の窯場の整理・統合以降、磁器中心の生産へと転換し、鍋島藩の積極的な保護奨励策の下、有田の磁器生産は急速に成長した。草創期の磁器は、技術的には朝鮮半島の影響が指摘されているが、当時中国から大量に輸入されていた明時代末期の民窯系磁器の影響も色濃く、かなり早い段階から染付磁器も焼造され始めた。有田で初期(1640年代まで)に焼かれた磁器は、一般に初期伊万里と呼ばれており、素朴かつ自由で力強い作風は評価が高い。伊万里(焼)の名は、有田一帯でつくられた磁器が主として伊万里津(港)から各地に出荷されたことに由来する。しかし近年、「肥前磁器」という生産地重視の名称が提唱されており、また古窯跡や消費地遺跡の考古学的発掘による具体的な生産・流通状況の解明も進んでいる。
色絵の誕生
当初、中国の染付を指向した有田の磁器は、寛永末から正保初めにかけての1640年代になると色絵磁器の焼成も可能となった。色絵の始まりについてはなお不明のことが多いが、正保4年(1647)、当時日本にいた中国人からその技術を習得したということが、酒井田柿右衛門家の古文書『覚』からうかがえる。また、当時中国から大量に輸入されていた景徳鎮民窯の南京赤絵や、漳州窯のいわゆる呉須赤絵の影響なども看過できない。色絵の誕生によって、有田では古九谷様式・柿右衛門様式・古伊万里様式・鍋島様式という絢爛豪華な色絵磁器隆盛の時代を迎えることになった。1970年代以降の古窯跡・消費地遺跡の発掘調査の成果により、古九谷様式の製品も有田で生産されたとの説が有力となり、精緻な考古学的編年が行われつつある。
(1)古九谷様式
古九谷という名の由来は、それが従来大聖寺藩の九谷窯(石川県)で生産されたと考えられていたためである。しかし近年の考古学的発掘によって、山辺田窯で古九谷の色絵素地が、また色絵を専門に行った工房跡、赤絵町遺跡からは古九谷の色絵陶片が出土しており、これらが1640年から50年代に比定されることから、古九谷は肥前・有田の初期色絵磁器であるとの考えが現在主流となっている。この段階の白磁胎はまだあまり精錬されていないが、大胆で豪快な造形と斬新な絵付けはそれを補って余りあり、宴会に用いる器として当時流行した大皿の名品を数多く生み出した。その文様は、『御ひいながた』(寛文7年(1667)刊)に描かれている小袖図案や、明時代末の『八種画譜』の漢画モチーフなど、同時代の流行意匠を積極的に採り入れており、中でも菱形文や亀甲文などの幾何学文様を巧みに用いる感覚は、斬新かつ現代的でさえある。さらに、古九谷の大きな特徴の一つに、一点として同じデザインがないことがある。この限定品的価値は、国内の富裕階級の需要を存分に満足させたことであろう。近年、東南アジアでの古九谷の出土例も報告されており、その流通については再検討の余地もあるが、基本的には国内用として生産されたものである。また、石川県の九谷古窯でも明暦元年(1655年)にはすでに磁器生産が行われていたことが発掘調査によって確認されており、伝世古九谷との関わりはなお検討を要する。
(2)柿右衛門様式
柿右衛門様式の名は、日本の色絵磁器発展に貢献した初代酒井田柿右衛門(?〜1666)に由来するが、一般に有田で輸出用につくられた、高品質の色絵磁器の一群を指す。
色絵の誕生・発展にともなって、従来の白磁素地の改善が進められ、濁手(にごしで)とよばれる乳白色の独自の白磁胎が誕生するに至った。その時期は、近年の考古学的発掘の成果によると、延宝年間(1673〜80)の1670年代頃と考えられている。濁手の白磁胎を生かしながら、明るい色調の赤絵によって、花卉文や動物文が繊細かつ優美な筆致で丁寧に描かれた。ここにいわゆる柿右衛門様式の完成を見るのである。主として轆轤型打ち成形された薄手の磁胎によって、歪みがなくシャープで繊細な造形をつくり出している。赤絵町遺跡の発掘などから、柿右衛門様式の磁器は古九谷様式を基礎に展開したと言われる。しかし、柿右衛門様式は、清の康熙年間(1662〜1722)の五彩など中国・景徳鎮窯の色絵磁器をその範としており、当初それらの代替品として国外で需要されたため、主に国内向けの古九谷様式の製品とは大きく雰囲気を異にする。17世紀後半からは型物の人形もつくられるようになり、赤絵町遺跡からはその土型も出土している。
オランダ東インド会社を通じてヨーロッパに渡った柿右衛門様式の製品は、1710年頃にヨーロッパで最初の磁器焼成に成功したドイツのマイセン窯をはじめ、フランスのセーブル窯、イギリスのチェルシー窯など各地でその倣製品がつくられた。
(3)古伊万里様式
江戸時代の肥前磁器の中でも、1640年代までの染付を中心とした磁器を初期伊万里と呼ぶのに対して、1690年頃から生産が始まった中国・景徳鎮窯の五彩や金襴手を志向した色絵磁器を古伊万里様式と呼んでいる。
万治2年(1659)、輸出の止まった中国の景徳鎮に代わり、オランダ東インド会社から東南アジアやヨーロッパ向け輸出磁器の大量注文を受けた有田では、明時代後期の五彩や当時ヨーロッパで流行していた後期バロック趣味をも採り込みながら、装飾性を過剰なまで追及した染錦手を完成させ、輸出磁器の中心となった。元禄年間(1688〜1704)には、景徳鎮窯の嘉靖年間(1522〜66)や万暦年間(1573〜1619)の金襴手を倣って、染錦手に金彩を施した、いわゆる金襴手様式も登場し、以後柿右衛門様式に代わり内需を満たすとともに、輸出磁器の花形としてヨーロッパの需要をも大いに満足させた。
(4)鍋島様式
磁器生産の確立・展開によってその商品的価値が高まるにつれて、有田を藩内に領有する鍋島藩は、磁器生産体制への管理を強化し、正保4年(1647)には有田皿山代官を置いた。鍋島藩は、藩の調度品をはじめ、将軍家への献上用や各大名・公家などへの贈答用として、とくに良質の磁器をつくる目的で、寛永年間(1624〜44)頃、有田の岩谷川内に一種の官窯ともいうべき藩直営の窯・藩窯を築いた。ここに鍋島様式の磁器の誕生を見る。藩窯は寛文年間(1661〜73)に有田の南川原に移り、また、延宝3年(1675)には伊万里の大川内山に移ったと言われる。厳格な規格と製品管理、それに当時の景徳鎮窯を倣った完全分業体制の下、最高の職人技術によって完璧なまでの様式美をそなえた製品がつくられ、元禄年間(1688〜1703)頃の大川内山藩窯の時に最盛期を迎えた。とりわけ、色鍋島と呼ばれる色絵磁器は鍋島様式を代表するものであり、洗練された和様の意匠と熟練した技術はいかにも官窯らしい風格をそなえている。木杯形と呼ばれる高台の高い深皿が代表的で、尺皿・七寸皿・五寸皿・三寸皿と厳格に規格化されている。
磁器のひろがり
有田では1640年から50年代にかけて、従来の朝鮮半島の技術から脱却して、中国の窯業技術を基礎にした窯業体制への大規模な転換が行われた。この背景には、中国の明から清への王朝交代にともなう内乱により流出した、華南の窯業技術の影響が指摘されている。1661年の遷界令によって、景徳鎮窯の磁器の輸出が完全にストップしたため、国内外の磁器需要の担い手として、景徳鎮に代わり有田がクローズアップされることになった。中国の最新の磁器焼造技術を導入し技術革新を行った有田の窯業は、1659年にはオランダ東インド会社から大量の注文を受けることによって、さらに景徳鎮窯磁器に匹敵する水準の製品をつくり上げるまでに至った。ここに、肥前磁器の海外大輸出時代が幕を開けることになった。1650年〜60年代から、中国明末の芙蓉手写しの染付大皿が輸出用として大量につくられた。先の技術革新の中から生まれた色絵磁器も、ヨーロッパを中心とした海外に輸出されて人気を博すことになった。
1684年の遷界令の解除によって中国の磁器が輸出を再開すると、肥前磁器の需要は極端に減り、むしろ国内市場を狙った染付を中心とした食器などの日常製品への転換を図った。製品の低価格化や技術の簡便化とともに、画一化が進むことになったが、一般庶民層にまで磁器が普及する結果をもたらした。1610 年代に有田で始まった磁器生産は、17世紀の段階では有田以外ではわずかに九谷窯(石川県)と姫谷窯(広島県)が知られるのみであった。これは磁器の商品的価値に注目した鍋島藩が、その技術が他藩に流出するのを極端に警戒し、厳重に管理したためである。しかし、技術の流出を完全に押さえることはできず、 18世紀になると、九州各地で磁器の生産が始まった。また、天明年間(1781〜88)頃には京都でも磁器焼造が始められた。そして、18世紀後半には、砥部焼(愛媛県)、須恵焼(福岡県)、小峰焼(宮崎県)、意東焼(島根県)など各地で、磁器を生産する窯が興った。さらに文化年間(1804〜18)には、瀬戸でも染付の焼成に成功し、その後飛躍的に生産量を伸ばし、磁器発祥の地である有田を凌いで、東日本では瀬戸物(せともの)がやきものの代名詞になるまでに至った。
(大阪市立東洋陶磁美術館 主任学芸員)